teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


滝沢思想の受容と反論

 投稿者:石井一男  投稿日:2017年 9月24日(日)15時05分19秒
  もう、かれこれ40年前にもなるだろうか。
「自由の原点、インマヌエル」を読み出してから。
その間に、いろんなことがあった。
最近、滝沢氏の長女が編集された御著書を毎日、少しずつ読み始めている。
一日、数ページの亀の歩みだが身に沁みる。
 
 

イエスをキリストと告白する契機

 投稿者:閲覧者  投稿日:2017年 9月 7日(木)20時03分45秒
  「太初の昔からすべての人の脚下にある『神われらとともにあり』という『インマヌエルの原事実』を明らかにし、その原事実と、そのことを証しする者としてのイエスとを峻別したことは、すでに亡くなられた滝沢克己先生の大きな貢献であった。ただ先生においては、イエスをキリストと告白する契機が、先生自身洗礼を受けてキリスト教徒になったにもかかわらず、十分に展開されてはいない、と言わなければならない。」(青野太潮著『どう読むか、聖書』〔朝日選書〕p223~224)
その点では私も同じで、いちおうキリスト教会に属してはいるものの、イエスをキリストと告白する契機は自分の中であまり展開されてこない。それは聖霊のはたらきが得られないからだと言ってしまえばそれまでだが、おそらく私には「神」さえおられればそれでいいのだ。ただし私にとっての「神」は常時「ともにあり」では困るのであって、ある程度の距離を置いた「遠くの神」であってほしいと思う。そのかわり、人なみに救ってもらおうなんておこがましい望みは持たない。地獄堕ちで滅ぼされるならそれはそれでしようがないとあきらめる。ただ、同じく消えてなくなるにせよ、運命によってそうなるのか、造り主によってそうなるのか、という違いには意味がある。
 

滝沢先生の命日

 投稿者:閲覧者  投稿日:2017年 6月26日(月)09時08分20秒
  今日、6月26日は滝沢先生の御命日です。キリスト教会に籍を置かれていたので召天日と言うべきでしょうか。ま、とにかくそういう日です。ちなみに私は知人でもましてや教え子とかでもない、一介の読者にすぎませんが、今日は1日、自分なりに厳粛な気持ちで、先生の業績を思いながら過ごしたいです。合掌  

(無題)

 投稿者:.  投稿日:2016年12月 4日(日)11時40分7秒
編集済
  .  

お初にお邪魔します。

 投稿者:行雲  投稿日:2016年12月 4日(日)11時27分13秒
  お久しぶりです。

新五井先生掲示板が消えちゃっと思ったら、ここに引っ越してたんですか?

やっぱり私は、ワルターさんはワルターのハンネが一番いいと思いますよ。

なぜかって言いますと、数ある指揮者の中で私の一番好きな指揮者がワルターだからです。

「運命」なんかでも、躍動感とか迫力とかではベングラーの方が勝っていると思いますが、あのゆったりとした雄大なスケールはワルター独特ですよね。

 

「全国ユニテリアン連絡会」のサイト開設の件

 投稿者:エムト  投稿日:2016年10月23日(日)13時41分14秒
  このたび、ウェブ上の2つの団体によって「全国ユニテリアン連絡会」(http://www.unitarian.jp/
を立ち上げました。以前はインターネット上に、日本のユニテリアンの交流サイトがありましたが、現在はまったくありません。それで我々有志が設けたしだいです。
どうぞ、どなたでもユニテリアンに関心ある方は参加し、掲示板に投稿して下さい。よろしくお願い致します。当方は、瀧澤先生の神学思想も、キリスト教の歴史の中では広い意味においてユニテリアンの流れに入るのではないかとみています。
 

滝沢氏の「三位一体」論(?)

 投稿者:閲覧者  投稿日:2016年 5月17日(火)13時15分58秒
  以前、どこかで滝沢克己氏の「哲学的神学」の思想にも「三位一体」があるようなことを見たので不思議に思ったのです。ehyehistさんが書いておられる豊田氏の指摘通り、滝沢先生はキリストの神性を否定しておられる・・・・、つまりキリスト教における、イエス・キリストの「真に神で真に人」というカルケドン信条における「真に神」の面は第一義の接触と第二義の接触との区別により否定したことになっているからです。しかしキリスト教の「三位一体」という神についての教義は、イエス・キリストが「父なる神」と「同質(ホモウシオス)」であるということ、すなわち神であるということから展開されているわけですから、キリストの神性を否定したのでは「三位一体」を肯定することはできないはずです。
ところで、滝沢先生と対論された八木誠一氏は、『無心と神の国』(青土社)という著書の中で仏身論に対する誤解にふれておられ、「三身論」をキリスト教の「三位一体論」に対応させることは不適当だと言われます。これをキリスト教の教義に対応させるなら、「三位一体論」ではなく「キリスト論」に対応させるべきだと。
「三身」とは「法性法身、方便法身(報身)、応身」です。これは「ロゴス、ロゴスの受肉態(=キリスト)、イエス」に対応するとのことですが、滝沢先生のキリスト論における(第一義の接触と第二義の接触の区別)はまさに、ロゴスと、ロゴスの受肉態との区別に対応するようです。そこで滝沢先生に三位一体的なものがあるとすれば、「神、インマヌエル、イエス」だそうです。滝沢先生において「キリスト」は「インマヌエルの原事実」だからです。「神」と、「神人の原関係」と、その「原関係」ないしは「原事実」に「目覚めた人」、この三位一体です。
「聖霊」にあたるものは、その「目覚め」させる働きであり、ここでは表面に出てきません。
「インマヌエル(神我らと共に在す)の原事実」は「第一義の接触」であり、この「原事実」に目覚めることが「第二義の接触」になります。この「第二義の接触」において言わば「超個の個」が成り立つというわけです。それも「一息」に成り立つという意味での「超個の個」です。
秋月龍珉氏は、「第一義の接触」が「超個の個」だと言うのですが、八木氏によると、滝沢先生においては「第二義の接触」が「超個の個」だと言う。なぜなら、「第一義の接触」においては「目覚め」た「個」がまだ成立していないからです。これに対して秋月氏は、「目覚め」ではいないにしても、「第一義の接触」が「インマヌエル(神我らと共に在す)」である以上、「我ら」を成り立たせる「個」がなければ意味をなさないのでは?と反論しますが、もっともな話です。これに対して八木氏の滝沢解釈においては、「超個の個」の「個」というのは単なる「個」ではなく、あくまでも「目覚めた個」を言うのだ、とのことです。
いずれにせよ、こういう事態を、キリスト教の伝統的用語である「三位一体」を用いて言い表すこと自体に問題があると私は思うのです。
八木氏もまた、キリストの神性を認めておられないのに「三位一体」を言われるわけで、その「三位一体」というのは表現こそキリスト教教義のそれと同じですが、内容は全く違うのです。つまりキリスト教の場合、神を「実体」とか「人格」として捉える伝統があるので、そのような神観を前提とする「神」を分節したら「父なる神、子なる神、聖霊なる神」になるというわけです。「子なる神」とは言ってもキリストの神性を認めないのだから、実際には、「神、キリスト、聖霊」という三位一体です。
八木氏の神観は「実体」ではなく「働き」であり、これを分節したら、「働きの出どころ、働きそのもの、働きかけ」の三つに分節され、キリストは「働きそのもの」に該当するというわけです。
これはキリスト教からみれば「三位一体」とは言えないことは当然です。そもそも「三位」の「位」、「位格」と訳された語はギリシャ語でヒュポスタシス、ラテン語でペルソナであり、「一体」の「体」と訳された語はギリシャ語でウーシア、ラテン語でスブスタンティア(又はエッセンティア)であり、要するに存在論的概念なので、八木氏の言う「働き」を示す概念とは言えないわけです。「働き」の三分節を「三位一体」と言い表すこと自体に無理があります。八木氏は「存在論」とか「実体論」に対して「場所論」とか「作用論」といった表現を用いておられるので、キリストの神性を否定する以上、「三」と「一」とを組み合わせることがよしとして、「位格」とか「実体、本質」などといった用語が使用すべきではないでしょう。
 

豊田氏の滝沢批判について

 投稿者:ehyehist  投稿日:2016年 4月21日(木)12時55分6秒
  バルト神学に詳しい豊田忠義氏は次のように、滝沢克己氏を批判なさっています。
サイト「キリスト教およびカール・バルトのほんとうの分かり方」
http://christianity-church-barth.undo.jp/

[滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった 。]


[「キリスト者」も、「聖書」も、「イエス・キリストという名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても」、「神われらとともに」という「根本的事実」だけは残ると書いた滝沢克己は、アジア的日本的な自然思想への復古性に依拠したイエスの神人論を認めているが、自由な自己意識の恣意性・主観性によってイエスの神性性を揚棄してしまった。]

[滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった 。]

[ブルトマンの人間学的神学は、宗教としてのブルトマン教の位相にあるものであり、アジア的日本的な自然原理の歴史性に帰属した滝沢克己の哲学的神学は、宗教としての滝沢教の位相にあるものである。]

[教会の宣教の批判と訂正」は、常に、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」における三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論等に埋没していく以外にないからである。良質な神学における思想としての三位一体論を持たない場合、例えば、滝沢克己のようにキリストの神性性を否定してしまうことになる、]

自分のような素人にもわかることは、滝沢氏はイエス・キリストの神性を否定したということです。神人の第二義の接触ですから。これは現代でも、エホバの証人などのように「異端」といわれる立場になりますね。しかし、だから滝沢氏はユニテリアンなのかというとそうでもなく、日本キリスト教団福岡社家町教会の信徒になられた。このあたりは素人にはよくわかりません。滝沢氏はご自身を(伝統的キリスト教においては)異端的立場であるとは自覚しておられなかったのでしょう。
一般に知識人というか思想家というのはわかりにくいもので、正統的な表現も使いながら異端的な発言をなさったりします。どっちか明瞭な人というのは(特に現代においては)少ない気がします。
 

国に体あり

 投稿者:知足  投稿日:2016年 4月18日(月)21時49分13秒
  人に体あり。国に体あり。神に体あり。而して、神の体は神の国なり。  

感謝

 投稿者:閲覧者  投稿日:2016年 1月10日(日)22時45分40秒
  >「神」にも・・・それなりの「体」がある
「名は体を現わす」ということですね。ヤハウェは一説によると「在らしめる者」という意味だそうなので(ただし、yahyehでYHYHとなりYHWHにはならないので不確定)、なおさら実体的な存在感がありますね。しかし目には見えません。神は理論的には全能で自由だから遍在しておられるとは言え、そのような捉えどころのないお方であることをよしとはなさらず、聖書では言わば自己限定なさり「天」におられるといわれています。この「天」は宇宙空間を超越していますが、「神」の状態には捉えどころのある「空間性」があり、また、受肉の出来事から示されているとおり、旧約聖書で「顔」などの比喩に示されているとおり、霊的(=非物質)的な「身体性」もあります。だからこそ我々は信仰の対象とし得るのですね。大切なことを気づかせてもらって感謝します。ありがとうございました。
<私たちは「霊」というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には「姿」あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。>(~「Remnant」)http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/073wakaru.htm
しかし、私見では滝沢先生の神観~神論は、そういう霊的な体や姿などには、あまり関心がなく省かれていると感じます。とにかく、故・三浦綾子さんの『旧約聖書入門』における、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」という言い方は、「神」はいかなる意味においても「体」の無い、とらえどころなき得体の知れないお方だと誤解させるおそれがあり、その点で不十分であり不適切であったと思います。
しかし問題はこのような形而上的な事柄ではなく実践的な事柄であり、すなわち倫理です。滝沢神人学から、いかなる倫理が展開されているのかが問われます。今後、この点について御教示願います。
 

re

 投稿者:知足  投稿日:2016年 1月 7日(木)22時20分7秒
  ヨハネの福音書4:24が答えです。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」とありますね。「神は霊」の「霊」は、神の本性を表しており、我々が「霊とまことによって礼拝」するというその「霊」は、生物に与えられている「霊」を指しています。「~ですから」とありますが、原文では「カイ」という接続詞であり、ここでは必ずしも理由を述べる意味はありませんが、同じく「プニューマ」としての関連性ないしは呼応性は否めません。
では、その関連性ないしは呼応性とは何か?ということになります。それは創世記1章26~27節にあるとおり、人間は創造主なる神の似姿(イマゴ・デイ)に造られたというのは、まずもって人間が物質を超えた存在として造られたということであり、これが「霊性」ということです。ただし、「霊」というと雲でもつかむようなわけのわからない感じになりますが、聖書が啓示する神はそうではありません。人間が「神の似姿」であるということは、人間に肉体があるとおり、「神」にも(肉体〔=物質〕ではないにせよ)それなりの「体」があるということです。
それで、「霊」に関しては、神も人間も物質を超える存在ということで、その本性・本質における交流が、「霊とまこととによる礼拝」です。ちなみにここで「まこと(真理)」をイエス・キリストだと主張するのは教会のドグマに洗脳されている人間です。原文では「霊と真理において礼拝しなければならない」であり、ここでの「真理」は「真実」と訳した方がいいかもしれません。要は真剣な気持ちでのぞめばよいのです。難しく考える必要はありません。
 

クッキーの件と「霊」について

 投稿者:閲覧者  投稿日:2016年 1月 6日(水)21時08分57秒
  知足さま、皆さま、新年、あけましておめでとうございます。
投稿者名を「知足」ではなく「閲覧者」に訂正したいと管理人さまにお願いしておりましたが、この掲示板の難点で、クッキーが保存されていないと編集・削除が出来ないようになっています。おそらく、クッキーの設定がなされていなかったものと思われます。
それは済んだことなのでよいとして、「神は霊である」と言われるわけですが、このことと「神の霊」とはいかなる関係があるのでしょうか?「神(=霊)」と「神の霊」との関係です。「神は霊である」という場合の「霊」と、「神の霊」という場合の「霊」とは別ですか?
 

1年の始めに、あらためて私にとっての滝沢神人学最大の謎

 投稿者:知足  投稿日:2016年 1月 1日(金)13時16分32秒
  新年あけましておめでとうございます。どちらさまも、本年もよろしくお願い申し上げます。
1年の始めに、あらためて私にとっての滝沢神人学最大の謎をちょろっと書いておきたいと思います。それはズバリ、「滝沢先生はイエスの父なる神に向かって祈られる時、その『父なる神』をどのようにイメージしておられたのか?」という一点です。この点について語られている箇所を御著書から探すのは困難です。おそらく滝沢先生にとって「神」とは対象的に把握されるものではないので、イメージするということ自体が不適当だったでしょう。あくまでも「インマヌエル」(神、我らと共に)における「エル(神)」なのであって、それ自体を対象化し、客体的に観ることは不毛な思弁に陥るからでしょう。
しかし実際問題、神に対して祈るにはそれなりのイメージが必要だと思います。聖書には「神」をさまざまなイメージで表しており、イエスも父親のイメージで祈っていたことでしょう。いずれにせよ、「神」との関係は神秘主義的に一体化しようとしたら常人はもちません。対人関係と同様、対神関係も「付かず離れず」、美輪明宏さんの言い方を借りれば「腹六分」くらいがちょうど良いと感じます。
ちなみに私は、神に対して祈る時、果てしない宇宙空間をイメージしています。私にとって「神」は被造物に内在せず(するのは「神」ではなく「神の霊」)、被造物の方が「神」に内在するのです。
「宇宙と、そのうちのすべてを造られた神は天地の主であり、手で作った聖所などには住まわれない(ホ セオス ホ ポイエーサス トン コスモン カイ パンタ タ エン アウトー フートス ウーラヌー カイ ゲース ヒュパルコーン キュリオス ウーク エン ケイロポイエートイス ナオイス カトイケイ)。・・・・なぜなら、われわれは彼(=神)のうちに生き、動き、存在する(エン アウトー ガル ゾーメン カイ キヌーメサ カイ エスメン)。」(使徒行伝17:24・・・28)
 

時間間違い

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月31日(木)18時10分7秒
  「8時間余り」の「8」を「6」とすべきところを「8」と入力してしまいました。どうでもいいっちゃ、どうでもいいんですが、いちおう訂正しておきます。あっ、もう6時間を10分も切りましたね。皆さま、よいお年を! ?(?_? ?)  

1年の終わりに、あらためて私にとっての滝沢神人学の妙味

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月31日(木)18時04分37秒
  平成27(2015)年も残すところ、8時間余りとなりました。ここで1年の終わりに、あらためて私にとっての滝沢神人学の妙味を述べてみたいと思います。
その点で、私は『聖書のイエスと現代の人間 ―― 田川建三「イエスという男」の触発による』(三一書房)から引用することがよいと思います。
と言うのは、私が最初に滝沢先生の思想に関心を持った理由は、田川氏のようにキリスト教(に限らず宗教全般)をラディカルに批判する、それも説得力ある学説に対応し得る神学思想だと感じたからです。いわゆる無神論者の批判に対する、伝統的キリスト教の護教的神学ならありますが、そういうのは独善的で対話になっておらず、キリスト者の側からみても相手の説得力に対抗し得るだけの説得力がありません。
しかし滝沢先生の場合は、御自身が伝統的キリスト教を超えておられるので、その強みがあります。八木誠一先生も同様ではありますが、表現としては滝沢先生の方がわかりやすい点が多いです。「人間こそは人間にとって根本的・根源的・・・神の国とは人間の可能性のこと」(p54)と喝破する宗教批判者に対して、あるいは、「イエスもまた、古代ユダヤ人の一人として、その発想の『根源』に、『歴史的社会的関係を神へと投影し、そこからひるがえって人間を見る、というイデオロギー的発想を〔残している〕』」(p56)と、イエスをも批判する過激な新約学者に対して、まともに対話できる信仰者の思想家としては滝沢先生くらいなものだったでしょう。それだけ「インマヌエルの原事実」という、「原点中心主義」ともいわれる思想形態には、現実的な強みがあったと思われます。現在もそうでしょうが、特に滝沢先生が活躍されていた時代は人々が足もとに確かなものを希求していた、その傾向が強かったのでしょう。『二十歳の原点』という本も出ました。ほんとうの自分探しというより、社会と個人との関係において存在の原点を問い求める志向性があったと感じます。こうした大衆の知的欲求に呼応するものが滝沢先生の思想にはあり、それが時に宗教には関心のない人々にも影響を与える普遍性を持ち得たのではなかったのでしょうか?
たとえば、この真冬に路上生活を余儀なくされている人々のことを思うと、自分がそんな状況だったら何をもって精神を支え得るかと考えるに、やはり徒手空拳であり、ゼロからの出発しかないわけです。問題はそのゼロであり、そこが自分という存在の根底ではなく、マイナスとは言え、そのまだ下があるということです。これを滝沢先生は「竿頭一歩進める」という言い方をされていますが、言い得て妙です。
地面を掘り下げてゆけば天然ガスが噴出しますが、逆にその力によって(現実にはありえませんが比喩としてです・・・)地表はもとより、それ以上のプラスへと上昇してゆく望みがあります。絶望を希望に変えるには、ゼロで開き直ったり諦めてしまうのではなく、寒風の中で空き缶をかき集めるなどしながらも、休む時には自分なりに原点を探り求めることが必要です。そうすれば自力で生きているのではなく、大いなる他力によって、他者によって生かされていることがわかってきます。すなわち人はどんなに追い込まれても、たとえ対人関係のストレス苦が原因でそうなったとしても孤立しては生き得ない・・・やはり対人関係を避けては生きられないということであり、その対人関係を通して対神関係を感得することがあるということだと思います。
経験的には周囲の人々を通しての生命のはたらきです。活力が身の内から沸き起こる体験とでもいいましょうか・・・このような「神人関係」自ら体現しているのが福音書に示されたイエスであるというのが滝沢思想であり、「神人の接触」の「第一義」と「第二義」の区別は極めて重要であり、正統主義キリスト教徒から見れば、従属説かユニテリアンのような異端と断じられるかも知れませんが、私はそんな正統的キリスト教と決別するきっかけを滝沢先生の御著書との出会いを通して見出したことは確かです。しかし歴史上の人物としての(ナザレの)イエスが実際に滝沢先生が言われるような生き方をしたという証拠はありません。あくまでも滝沢先生が語られるイエスは田川建三氏の「逆説的反抗者」としてのイエス像と同レベルの史的(=私的)イエス像にすぎません。そしてイエス像は知の対象ではなく信の対象であり、その点では教会が宣教するキリストと大差ないのです。ただ、ファンタジーよりかはリアリズムの方に重きが置かれているというだけの違いです。
<(a)イエスはたしかに、死すべき人、現実的・具体的な一個の人間である。しかし、まさにそのような人間として、かれは神とまったく直接に一である。神から離れて、人間イエスは一瞬も存在しない。(b)しかしそのことは、人間イエスが何か人間以上のもの、「超自然的」なものだということを意味しない。いなむしろまったく逆である。なぜならこのことはすなわちまた、己れが一個局限された物にすぎない、どんなに高く昇ってもこの地上を離れることができない、かれがそれを認めると否とにかかわらず、人間イエスはけっして主なる神ではない、絶対に、自己自身の却下に引かれている神人の限界線を超えることはできない、ということにほかならないからである。(中略)このように、事実存在的・根源的本質的に決定せられた一存在として、かれは始めて、一個有限の自由な主体、すなわち人間である。絶対無条件にこのように決定せられた、代替不可能な一人の人という点で、イエスもまた、他のあらゆる人々、この私自身と、いささかも異ならない。ただかれは、この私とはまったく違って、その生活においても思惟においても、覚めた時にも眠っている時にも、どんな危機的な状況においても、けっしてかれ自身の成立の根底に直属する絶対無償の決定を忘却・無視し、これに背叛して自己決定を行なわない。不治といわれた病いを癒やし、五千人にパンを与えるかれの業(中略)この人をして、絶対的な被決定 ―― 神により神において引かれている人間存在の大限界 ―― を忘れさせることはできなかった。>(p63~65)
滝沢先生は、伝統的キリスト教のキリスト論とは異なり、恩師であるK・バルトのそれとも異なって、イエスの神格化を否定して一個の人とするところまでは田川氏と同じです。しかしそこからがかなり違う。やはりただの人としては相対化しきれない、聖書を無批判に読む限り、イエスはどこか特別な人格とする理想的な見方が残っています。「けっして主なる神ではない」とは言われていますが、逆に言えば「けっしてただの人間ではない」のです。そこが私にはいまひとつついてゆけないところであり、自分たちと同じ人間だというなら、親鸞が指摘したとおり煩悩具足の凡夫に変わりはないのですから、性欲もあれば物欲もあるわけで、キリスト教的には原罪も抱えていたはずです。八木先生の覚者的イエス像とも通じますが、どこかインテリのイエス像というのは世間の人間と違って乙にすました感じがあり、これも教会の幻想的なイエス像とは別の意味でリアリティーに欠けるわけです。福音書、特にヨハネによる福音書のイエス像を参考にするなら、イエスという人物は神秘主義者だったと思われます。そのこと自体、現代的にみれば批判的対象です。そもそも「神と一つ」と言うとか、寝ても覚めても「原事実」に即して生きたなんてことは超人ではなく常人ならあり得ません。どんなに熱心なキリスト者も、熟睡している時まで神さまのことを思ってはいません。史的イエスは我々と同様に煩悩を抱えて生きた・・・親鸞のように生きた・・・その葛藤の中で、徒手空拳の状況でも絶望に終わらない道筋を示したと言うべきだと私は思います。私にとってイエスは、けっして理想的な人物ではないのです。

滝沢先生の思想的な魅力は、事実を突き詰めてゆく迫力にあります。それが高じて晩年には眼の奇跡的回復により新興宗教への深入りという事態に立ち入られたのかどうかは知りませんが、「人間の根源は人間なり」という田川氏の考えを検証し、ほんとうに人間の根源は人間自身なのか・・・果たして人間とはそのような存在であるのか・・・ということを思弁的にではなく突き詰めていった点に私は説得力を感じたのです。

<こういう田川の考え、解釈には、ある点たしかに、きわめて身近かな、と同時に限りなく深い真実が含まれているであろう。人間が大切にしなくてはならないのは、ひっきょう事実存在する人間・人間存在の事実そのものであり、そこに含まれている積極的・創造的な可能性である。人間が人間存在の事実を素通りし、これから遊離して、善く美しき何かの可能性を夢みる虫の好さ・卑屈さから、ありとあらゆる汚れと禍いが止めどもなく発生するのだ。イエスが闘ったかぎりのユダヤ教・パリサイ主義は、まさにその典型にほかならない。まことにそのとおりだ、と私も思う。ただ私は、まさにそれだからこそ、当の人間存在の事実そのものを、竿頭さらに一歩を進めてよく見きわめなくてはならないと思うのだ。(中略)J・P・サルトルもある点正しく言い表わしたように、人間は根源的に(というのはかれの一切のはたらきに先立って)自由であるべく決定された ―― ふつうの意味では決定する何ものもないにもかかわらずそのように決定された ―― 存在である。だからこそかれはその成立と同時にすでに何か特定の自己決定をなさざるをえない。そうして、この絶対的被決定即自己決定という自己存在の根底的真理を辨えないということは、とりもなおさず、自己自身をそうとも知らず誤解するということ、最も根本的な意味での「悪しき信仰」(manvaise foi=自己欺瞞・無意識の偽善)に落ちこむことにほかならない。(中略)田川が、直接にはいかなる特殊歴史的な現実形態にも関わりえない「人間の根本・根源」についての立言を敢えてするということは、そのことじたい、かれが一面虚しい形而上学的思弁を厳しく拒むと同時に、他面右のような自己喪失を免れているということにほかならない。多くの自称「実証的」な歴史家たちとちがって、かれは人間存在の事実そのものの重さ厳しさを、かれ自身の胸底にともかくも感覚している。ただ、その感覚 ―― このばあいは感覚といっても理解といっても同じことだが ―― が、J・P・サルトルほどにも明確になっていないというだけである。大切なことはそれゆえに、この感覚をさらに磨いて曖昧を去るということ、ほんとうには理解できていない事柄について、自明のことのごとく言葉を吐くことをやめて、さらに突きつめてその事理を問うということではないであろうか。世の自称現実主義者どもの「内容空疎」とか「抽象的一般的」とかいう非難嘲笑を恐れることなく、それがおのずから歴史的現実をそれとしてほんとうにありのままに考察する積極的な方法と成るまで、「人間にとって人間が根本・根源である」という立言の意味を突きつめて問うことこそが、田川にとって一つの緊急の課題となりはしないであろうか?この課題を身に引き受けることなしには、「人間の根源は人間だ」といっても、当の人間そのものはかれにとって永久に、限りなく美しい創造と、ありとある汚れ・歪みと、互いに矛盾する二つの「可能性」の、ただたんに不可解な混合物にとどまるほかはないからである。>(p53~56)
 

滝沢先生とクリスマス

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月25日(金)21時46分16秒
  今日はクリスマスです。ところで滝沢先生(以下、先生)は49歳の時、福岡県福岡市の福岡社家町教会でクリスマスの時に、佐藤牧師より洗礼を受けられました。
ところで、先生は福音書の「5千人の共食」の話について、イエス・キリストがパンを5千人に与えたというの奇跡はすごいと思うわけですが、聖書ではイエスがパンの奇跡を行うために天を仰いで父なる神さまに祈りをささげます。そしてパンをみんなに配ります。すなわち、イエスが奇跡を起こす前提として、父なる神の存在があるのです。ここに「父なる神」と「子なるキリスト」との区別がありまsが、それを消してしまう人々もいます。イエスさまが奇跡を起こしたのであり、こもイエスさまを信じましょう・・・みたいなワンネス信仰、ジーザス・オンリーの立場が果たしてよいのだろうかという問いを滝沢さんは持っていくのです。実際、そういうことが『マタイ福音書講義』の中でも書いてあります。

 

今日は討ち入り日

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月14日(月)23時18分38秒
  入力間違い?どうでもいいです、そんなこと。
それより今日は赤穂浪士討ち入りの日です。そこで大石内蔵助の辞世の句をあらためて味わいませう。

「あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
(これは主君である浅野長矩の墓に献げた句)

「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
(これが実際の辞世の句。四十八人というのは、討ち入りした四十七人に主君長矩を足した数)
 

入力間違い

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年12月10日(木)22時08分50秒
  知足さん、投稿者名を自分(閲覧者)と入れずに、宛先である知足さんの名にしてしまいました。
正直、今、酒飲んで酔っています。失礼しました。前田保先生に、投稿者名を「知足」ではなく「閲覧者」に訂正して頂くよう、今、メールでお願いしました。訂正されないといけないので、いちおう、これを出します。
閲覧者の皆さんは、「小田垣氏は考え過ぎ!」の記事は、投稿者名と宛名が同じなのでヘンに思われたでしょうが、投稿者名を「知足」ではなく「閲覧者」に替えて読んで下さい。よろしくお願いします。
 

小田垣氏は考え過ぎ!

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月10日(木)21時49分41秒
  知足さん、小田垣雅也氏の文言引用を頂きましたが、その内容を読むと、それこそ貴殿が言われる「過ぎ」た考えであり思弁ではないでしょうか?
「絶対無は『ただ生きられるもの』です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。」だなんて、まさに考え過ぎとしか思えません。
「神」を「人格」の比喩で語る場合、その「人格」を人間が主体的に生きるものとして考える必要はありません。そのような意味での「人格神」は聖書的ではないし、実際問題として祈りの対象になるでしょうか?小田垣氏の考えの方がおかしいのです。ちなみに彼は離人症です。失礼ですが常人の感覚とは違います。
それはともかく、聖書が啓示する「人格神」は、人間に語りかける意思を持った絶対者としてイメージすればよいのです。あとはJWの以下の文言を読んで下さい。そして、それ以上の思弁は無用です!
「もし神が,霊の世界をあてもなく漂う非人格的な力であるなら,人間を,複雑な人格を持つ者として創造したりするでしょうか。人間が神に似た者として造られたのであれば,神には人間に似た多くの特性があるはずです。」http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102010372
 

蛇足

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月10日(木)13時30分14秒
  閲覧者さん、このへんで神思弁はやめましょう。ひとことだけ・・・バルトが神の対象性を認めたのは当然と言えば当然です。バルトにとって神啓示は聖書ではなく、聖書が証言したイエス・キリストであり、キリスト自体が神啓示だからです。すなわちイエス・キリストにおいて非対象なる神が自己対象化したというわけなので・・・。
それと、言われるように小田垣氏の滝沢神学についての理解は、滝沢神学研究者からみれば疑問なしとはし得ないでしょう。ただ、自分の理解を絶対化して主張しないのであれば、人によって色々な理解のし方があっても、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
話を元に戻して、エスさんのいわれる「超人格」ですが、小田垣氏も「人格神」と題された説教で「無性的超人格」という言葉を用いているので引用しておきます。ただし、私自身はこのように一方ではフェミニスト神学に、また一方では伝統的神学にこびるような考えは持ちません。師弟関係だったともいわれる野呂芳男氏と小田垣雅也氏との著書に共通してみられるのが、このようなスッキリしない姿勢だと感じています。それは両者とも曲がりなりにも日本基督教団の教職者としての立場に制約されていたことと関係があるのでしょう。その点では滝沢克己先生や八木誠一先生とは根本的に違います。もっとも滝沢先生は晩年に同教団の教会で洗礼を受けて信徒にはなられましたが・・・。
なお、前回に引用した小田垣氏の「説教」は「復活」ではなく「復活について」でした。訂正しておきます。以上、蛇足ですが、何かの参考になれば幸いです。http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0407.htm


無性性、超越的女性性を「人格」と表現することは、理解できよう。なぜなら、わたしたちは人格なのだから、ほかに表現の仕様がない。その超越的女性性を「対象・物質」と理解するよりも、人格のほうが、はるかに実情に即している。物質は必ず対象認識に的なる。もともと人格は流動的なもので、とらえどころがない。それは対象・物質になることを否む。「絶対無」が、道元にしても、親鸞にしても、また西田幾多郎にしても、人間と結びつくのは、このせいではあるまいか。 ・・・・
全体性、無なるもの、大自然なるもの、根源的に女性なるものは、三位一体論的あり方をしている。それはまず、男・女という対立する両性と、そもそもその男・女という区別がありうるための場としての、男・女・その超越的女性性の場、の三位である。それをあえて表現するとしたら、それは人格性であろう。このことを、伝統的キリスト教の、神の人格としての三位一体論は意味しているのかもしれぬ。それは無性的超人格である。そしてそれは、「すべてを含むもの」としての女性性であろう。最前から、わたしはこの無性的超人格が超女性性であるといっているのである。そういう意味でなら、生命のすべての根源は女性的なものである。そういう根源的現実を表現しているのが、イエスの復活ということではあるまいか。
http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0409.html
 

Re:閲覧者さんへ

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年12月 9日(水)19時02分56秒
  知足さん、くわしい説明をありがとうございます。「変異」は「返事」かなにかの入力ミスでしょうか?
さて、遠藤周作氏などがいかに「神は対象ではない」とか言ってもそれはしょせん小説家の頭のレベルであり、神学者や哲学者のレベルには及びません。ましてや滝沢先生のレベルとは天地の差があります。また、哲学者とか神学者と称して滝沢神学に関してかなり批評めいたことを述べてきた小田垣雅也氏も、どこまで滝沢神学を理解し得ているかは大いに疑問です。また、小田垣氏ひいては西谷啓治氏などの言う「人格」と八木先生がキリスト教神学について「人格主義的」と言われる場合の「人格」とは意味が違うのではないでしょうか?
ところで滝沢先生は次のように述べておられます。なお文中の「著者」とは八木誠一先生を指します。
「ちなみに著者は、カール・バルトが神を人の《gegenuber》(対極)と言うばかりでなく時にはっきりと『対象』と呼ぶという理由で、バルトにはなお著者のいう意味での『対象的』思惟が残っているという。(二二九―二三二頁)。ところが、自己ないし絶対者にかんして極力対象的思惟を排除する西田哲学をとおしてバルト神学に出会った筆者は、むしろ反対に、カール・バルトがかれ自身の信ずる神にかんして、きっぱりと対象と言うことを憚らないということに驚嘆してきた。まさにその点にこそ、この根本の事実にかかわるカール・バルトの認識もしくは思惟方法の類いない確かさを見るからである。しかも筆者のばあいそれは、人間的主体を『対象的存在』と言い切って動じないマルクスの心眼の鋭さ・明らかさ(『経哲草稿』)に対する驚嘆と、深く通ずるものなのだ。著者と筆者のあいだになお残る考えのずれは、ここにもまた示されてはいはしないであろうか。」(『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p154)
この文中での注として滝沢先生は、「筆者自身もまた、ナザレのイエスの誕生・十字架において『インマヌエルの原事実』が始めて成立したと考えるかぎり、カール・バルトにおいてもなお、人間の自己を孤立的に措定する旧き思惟が残っていることを指摘してきた。しかし、それとこれとはまったく別である。ここでバルトは、インマヌエルの原事実そのものに即して、神を対象と呼ぶ。それはかれが通俗の実存主義の曖昧を、それだけ徹底的に脱け出ていることの、一つの明らかな徴だというのである。」と述べておられます(p167)。
この「インマヌエルの原事実そのものに即して、神を対象と呼ぶ」というところに注目させられます。
 

閲覧者さんへ

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月 9日(水)14時03分17秒
  「過ぎたるはなお及ばざるが如し」といいます。擬人神観に対する批判としてはクセノファネスのそれが有名ですが、彼もまた、その過ぎた批判を批判されており、聖書においては特にJ資料に顕著とされる擬人神観の意義はけっして否定されるわけではないとは思いますが・・・私はこのような、神についての思弁を弄する場にかかわる場合、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」という言葉をいつも念頭に置いています(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18)。「思考停止」というか「思弁停止」ですかね(笑)
ところで、先日の「教えて下さい」への返事に八木誠一先生の言葉を引用しましたが、貴殿もSさんへの変異で八木先生の言葉を引用しておられたので嬉しく思いました。
「・・・神は人格主義的に、また場所論的に、語られる。神自身は場所でも人格でもない。結局のところこれらは比喩である」という、この一文は確かに聖書が示す「神」について論じる上では共通認識というか了解事項とも言うべき大前提だと思います。八木先生は「神については比喩を用いて語るしかない」とか「『人格』と『場』という両方の比喩が必要」であると述べておられます。
Sさんの言い方を借りるなら、人間は「神」を比喩的にしか言い表せないという限界を自覚して論じるのと自覚せずに論じるのとでは雲泥の差があるということだと思います。
ちなみに遠藤周作氏の場合は、おそらく八木先生の影響によってでしょう、「神」を「はたらき」だと言っています。『私にとっての神』というエッセイで、「病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。神は存在じゃなく、働きなんです。 」と述べています。そして、「私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。 」と述べていますが、この「主人公」であるロドリゴ神父を通して「神」は「沈黙」していなかったということが、この全体的に暗すぎる作品の中に希望の光を灯しています。イエス・キリストの「おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない」といったセリフですね。ここで遠藤氏においてはキリストと神とがまさに一体です。「はたらき」であって存在ではないので実体的区別もないというわけでしょう。
ところで、遠藤氏は「神というものは対象ではありません」とか「神は存在じゃなく、働きなんです」と言いながらも、「背中を何かが押してくれてきた」というように、まさに「神」を擬人的に(・・・人格的対象としてと言えるかどうかはわからないが)、すなわち存在として語っておられるわけです。そうならざるを得ないわけです。いくら「神≠対象・存在」であって「神=働き」だなどと言っても、「神」は「人格・対象」か「非人格・非対象」のいづれかではなく、八木先生が指摘しておられるとおり、その両方において語られるからです。「神」は「人を通して」、「その人の人生を通して働く」からこそ「人格」だというロジックは、実は小田垣雅也氏が西谷啓治氏の著書からの示唆によりご自分の「説教」の中で語っていることでもあります。
「絶対無としての神が、なぜ人格神と結びつくのでしょうか。そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ』(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。(中略)このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。(中略)その意味で、絶対無は『ただ生きられるもの』です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。」(~みずき教会説教「復活」) 」
要するに小田垣氏のいう「人格」とは「生きられるもの」を意味します。八木先生によれば、西谷氏の言う「生きられうるのみであるような無」とは先生の場所論的神学における「はたらき」のことだといいます。小田垣氏において「人格神」とは謂わば「生きられる無(=絶対無)としての神」ということになり、逆に言えば、人が生きられない「神」は「人格神」ではなく、人間の思考対象としての「(偶像)神」ということになる。だから遠藤氏にとっての「神」が「だれか人を通して何かを通して働く」というのは、その「だれか」にとっては、『沈黙』のロドリゴ神父のように自ら「神」を生きているということになります。
このような「人格神」理解は、八木先生のいわれる「場所論的」な神論と「人格主義的」な神論との区別を横断するものです。八木先生に訊いてみないことにはわかりませんが、上記の小田垣氏のような「人格神」理解には、八木先生の立場からすれば混同があるのかも知れません。しかし肯定的に見れば、神秘主義的思想というのは禅仏教にも通じて、あらゆる分別を超えるような面があるのかもしれません。結局、「神」は「意識」の次元では「人格」的で、信仰の「対象」であり、同時に「無意識」の次元では「はたらき」で「非対象」であり、その「二重性」において存在(と言えるなら存在)している・・・とでも言えましょうか。
もう、ここまで来たら私にとっては完全に考え過ぎです。もっと手前で思考停止しなければ生活現実から遊離してしまいます。
禅語の「息念忘慮 仏自現前」にかこつけて言えば、「神」が「人格・対象」か「非人格・非対象か」などといった「思念」や「思慮」の分別を放り止めることによって自分の心の中に「仏自現前」ならぬ「神自現前」が生じてくる。自分自身にとっての生ける「神」がおのずと現前してくるということでしょう。そこで滝沢克己先生のいわれる「インマヌエルの原事実」ということが想起されてくるのではないでしょうか?意識する,しないにかかわらず、この「原事実」は万人の脚下に恵まれているのですからね。いや、ついつい長々と失礼しました。
 

Sさんへ

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年12月 7日(月)22時26分21秒
  Sさんは、エスさんと同じかたでしょうか。貴重なコメントをありがとうございます。滝沢先生が、「イエス・キリストと言われる唯一の神、永遠の神」という表現を使っておられたのは意外であり残念な感じもします。私の中で滝沢神学が伝統的キリスト教神学と根本的に異なる点は、イエス・キリストを(実体論的に)「神」とは告白しないことだからです。滝沢先生がイエス・キリストにおいて第一義と第二義の不可逆的な区別を見出したというのはそういうことでしょう。だからこそ史的イエス主義の田川建三氏とも対話できたわけで、滝沢先生は伝統的キリスト教のようにイエス・キリストを実体論的に神格化していたわけではなく、従って滝沢先生が認められる「三位一体」も、正統的教義としてのそれとは意味内容が異なるはずです。私見では、滝沢神学は正統的キリスト教よりも異端とされたユニテリアンの方に近いと思っていますが、いかがでしょうか?滝沢神学がユニテリアン思想ではないというしるしはありますか?私は、イエスを実体論的な「神」とは認めない八木神学がユニテリアン思想のレベルを超えていることは承知しているのですが、ここではふれません。
それはともかく、「超人格」とは、比喩で「人格」的存在として語らざるを得ない「神」を、さらにそれ自体に近く表現した言葉だと感じました。「擬人化された神」と「人格神」との区別は、神学的素養がある者でさえ曖昧になりやすいと思います。その点、いみじくも八木誠一先生は、「場所論は神と人との関係の一つの相(アスペクト)の叙述であって、人格主義を否定するものではない(中略)神と人との関係は、人格主義的にも場所論的にも語られる。新約聖書がこのような二重の語り方をしている。(中略)神は人格主義的に、また場所論的に、語られる。神自身は場所でも人格でもない。結局のところこれらは比喩である」(『場所論としての宗教哲学』p6)と述べておられます。これはとても重要な指摘であると私は思っています。
ところで『一神教とは何か』(東大出版会)の中で加藤信朗という人物が、「『人格神』という言葉は・・・多くの人が分からないと言っています。なぜかというと・・・Personal Godというのは、Personified Godとどうしても日本人には受け取られてしまう。personified(人格化された)、つまり人みたいなものだと。ですから、Personal Godというヨーロッパ語で言えばまだいいのですが、それを『人格神』と日本語で訳しますと、もう全然分からなくなってしまうのです。」と述べていますが、たしかに私自身もそういう感じはあります。しかしこの加藤という人物は、アウグスティヌスの『告白録』の最初の、「主よ、あなたは偉大であり、いとも讃美すべき方であられます」という呼びかけが「人格神」への呼びかけだと言われる八木誠一先生の発言を、無礼にも「違います(笑)」と一蹴するのです(p25~26)。
しかしそこで八木先生は、「いやいや、私どもが神を人格神という場合、『人格』という言葉にとらわれないでください。人格という言葉から神を理解するのではなく、逆にアウグスティヌスが、"Magnus es,domine,et laudabilis ualde" と神に人間の言葉で語りかけている。そういう語りかけができる。このような仕方で語りかけられる相手を人格というのだと、逆のほうから考えていただきたいと思います。」と述べておられます(p27)。すなわち、Sさんが御指摘の「語りかけられる」存在が「超人格」であるということと同時に、人の側から「語りかけられる相手」が「人格神」であるというわけです。受動と能動の両方ですね。ここに所謂、我と汝との人格的な神と人との関係が示されます。
なお、「無自覚的な擬人化と、ある程度擬人化せざるを得ないことを自覚することとは、雲泥の差があります」とはその通りだと思います。言わば自己限定ですね。キリスト教神学は聖書という限定の中で、類比という制約された手段を用いてしか「神」について語ることができません。蛇足ですが、私は、この聖書啓示にもとづく神認識の「限定」の比喩として「キリストと共に十字架にはりつけにされている」という同時性があるように思います。以上、神学の「シ」の字も哲学の「テ」の字も知らないズブのド素人の閲覧者がよけいなことを長々と書きましてたいへん申し訳ありません。どうか御放念下さいまし。また、何か御教示を賜れるなら望外の幸です。
 

擬人化された神と超人格

 投稿者:S  投稿日:2015年12月 6日(日)16時23分21秒
  いわゆるキリスト者は、神を人に擬して語り、そのような擬人化された神を人格神と呼んでいるにすぎないのではないでしょうか。他方で、有限な人間は、神をある程度擬人的に語らざるを得ないということも事実です。しかし、無自覚的な擬人化と、ある程度擬人化せざるを得ないことを自覚することとは、雲泥の差があります。

あえて後期ハイデッガーを引用します。「人間は、存在に語りかけられることによってのみ、人間の本質のうちに本質現成する。」(GW 9,323) 「語りかけられる」というのも一種の暗喩(比喩)なのですが、そのように表現せざるを得ないものが、祈りを含めたすべての人間的営為に先立つのです。そのようなものが超人格的と言われるのです。

最後に、『バルト=滝沢往復書簡』から滝沢先生の言葉を引用します(128頁)。
「しかし、新約聖書においてイエス・キリストと言われる唯一の神、永遠の神は、直接私に語りかけて、彼はいかなることがあってもすべての人と共におり、すべての人間を神ご自身において一つとなす、と言われるのです。」(寺園訳)
 

心したい2つの予言

 投稿者:ehyehist  投稿日:2015年12月 4日(金)14時15分2秒
  三島由紀夫氏の有名な、<私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう。>(~「果たし得ていない約束」『サンケイ新聞』昭和45年7月7日夕刊)という言葉は今の日本国の姿をものの見事に予言したと思われますが、同じ頃、キリスト教の分野でも今の日本のキリスト教について予言した人がいます。
<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)
過去においては「キリスト一元論」(Christo-monism)と揶揄されたカール・バルトの神学への批判とも取れますが、将来においては昨今、ファンダメンタルなキリスト教派の中に「ジーザス・オンリー」とか「ワンネス」とか云われる「キリストのみ神」的教会が隆盛しており、その予言とも取れます。
「父なる神」を見失ってしまっているという批判に堪え得る神学は、小田切氏自身のそれ以外では、滝沢克己先生の神(人)学くらいしか、私には見当たりません。「インマヌエル(の原事実)」における「神」とはイスラエルにおける父なる神(イザヤ63:16、エレミヤ31:9)であると同時にイエスが弟子たちに「われらの父」として示されたお方(マタイ6:9、ルカ11:2)だからです。
 

知性の犠牲

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年12月 3日(木)22時41分52秒
  エス様、コメントありがとうございます。エス様というお名前はどこかで見かけた感じがします。他の掲示板か何かに投稿しておられませんでしょうか?フロイトの「イド」としての「エス」か・・・と印象に残っていたのです。ところで、伝統的キリスト教の神学者や司祭や牧師たちの「信は、真理に耳をふさいで、知性の犠牲を犯すような信」ではないか、と言われるのはそのとおりだと私も感じます。三位一体なんて知性の犠牲以外の何ものでもなく、しかしそれを固守することが敬虔であるかのように思い込んでいるふしがあります。大きな間違いだと私は思います。「奥義」だの「秘義」だのと神秘のベールにくるんでいます。しかし知性も神様から与えられた賜物であり、これをおろそかにすることは不信仰だと思います。考えるべきは考え、批判すべきが批判しなければならないと思います。そんなおかしな伝統的キリスト教に滝沢自身が入ったのですが、これがげせません。それはともかく、「超人格」と「人格」とはどう違うのでしょうか?「人格神」という言葉がありますが、「超人格神」という言葉は聞いたことがありません。バルト神学における「神」が伝統的キリスト教の「人格神」であるとしたら、エス様が言われる「超人格」の「神」・・・すなわち「超人格神」ってどんな神ですか?いわゆる「人格神」と、なにがどう違うのですか?どうか教えて下さい。よろしくお願い致します。  

人格か、非人格か

 投稿者:エス  投稿日:2015年12月 1日(火)20時59分42秒
  『バルト=滝沢往復書簡』の78頁には、次のような滝沢の言葉があります。「…何かが実際に存在しており――外にも、内にも――、すべてはその何かにかかっており、人はその何かに対してのみ、〈御心が天にも行われる通り地にもなりますように…〉とイエスが教えられたように、祈ることができるのです。」 祈ることのできる神、それが滝沢のインマヌエルの神です。

滝沢神学の神は、正確には、超人格と言うべきでしょう。

キリスト教会の牧師たちが滝沢神学を無視するのも分からなくもないのですが、彼らの信は、真理に耳をふさいで、知性の犠牲を犯すような信ではないでしょうか。そのような信が、はたして現代人を救うことができるのでしょうか。
 

Re:教えて下さい

 投稿者:知足  投稿日:2015年11月15日(日)03時35分54秒
  ご案内のとおり滝沢氏はカール・バルトと西田幾多郎の両者から影響を受けておられますよね。ところで『神はどこで見出されるか』(三一書房)などに示されているとおり、長年、滝沢氏と思想的対話を重ねてこられた八木誠一氏は、キリスト教の神学を人格主義的な流れと場所論的な流れとに分けて説明しています。分けると言っても、そのように区別できるという意味であり分離するという意味ではありません。だから、八木氏の立場は「神」を「はたらき」として捉える点では主として後者の方ですが、前者の面も避けられないことは認めておられます。そして、滝沢氏との一致点はあくまでも後者の面にあったと思われます。
貴殿が問題としておられるのは前者でしょう。これは現代においては滝沢氏が師事したカール・バルトの神学に代表され、後者はそのバルトのもとで学ぶことを滝沢氏に勧めた西田幾多郎氏の哲学と共通性が指摘される神秘主義的神学に代表されるとするなら、滝沢氏の思想には、その両面があるということではないでしょうか?すなわち、大雑把に言えば、滝沢克己氏の神観には「人格」的な面と「非人格」的な面とがあるというのが、私の理解です。ただし、神秘主義的な思想の「神観」が非神格的であると決めつけることはできません。前述のように前者と後者とは分離できないからです。要するに「神」を対象的に捉える度合の問題に矮小化するなら、前者よりも後者の方がその度合が低いということです。以上、何かのご参考になれば幸いです。
 

教えて下さい

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年11月14日(土)21時10分58秒
  どなたか、教えて下さいまし。
滝沢先生にとって(その思想において)「神」というのは「人格」ですか?それとも「神人の第一義の接触」における「神」であるから、どちらかというと「事」であり「非人格」なのでしょうか?表現だけ見ると、滝沢先生も「神」を旧約聖書にみられるように擬人的に表現しておられるようですが、「インマヌエルの原事実」を究極の関心事としておられたとするなら、キリスト教の人格的な対神関係とはちょっと違うのかな、と感じます。「原事実」は人格ではありませんから。ふつうにクリスチャンは、そのような「原事実」よりも「共におられる」ところの「神の存在」の方に関心が向くと思います。だから祈るわけで、人格神信仰がなければ祈りというのは、少なくとも対話としては成り立たないと思いますが、滝沢先生の場合の祈りとはどのようなものだったのでしょうか?滝沢先生も晩年はクリスチャンにおなりになられましたが、その「神観」は遥として捉えどころのない感じが私自身はしているので、「人格」か「非人格」かのいずれかで言えば、どちらですか?と問う次第です。
 

お答え

 投稿者:投稿者  投稿日:2015年 9月 1日(火)13時01分52秒
  お気を悪くされたなら失礼をお赦し願います。
滝沢氏の業績につきましては、滝沢克己協会の公式HPで「滝沢克己 人と生涯」と「略年譜」を閲覧できます。私自身は「滝沢克己の世界 滝沢克己の思想」がとても要を得た内容なので、入門者・初心者が滝沢氏の思想のエッセンスを把握するには最良のガイドとしておすすめします。なお、「小学生低学年にも分かるように」とのことで、要はわかりやすい説明ということだと思いますが、思想を学ぶも程度問題ではないかと思います。やはりそれなりの素地となる知識とかセンスが必要かと思います。

http://www.takizawakatsumi.com/
http://www.takizawakatsumi.com/newpage15(siso).html
(※リンク先はいずれもteacup.のページではないので出るまで10秒待たされます)
 

レンタル掲示板
/21