|
|
きょうは奇しくも故先生のご命日です。午前中に、大学時代の友人から三年ぶりに電話があり、《お話がしたいので訪ねて良いか》という。就職の相談か、あるいは保険でも入って欲しいというのか、と思いつつ了承すると、何と見知らぬ連れの女性を連れての《仏法の話》だった。この女性のハナシが支離滅裂、ひどい内容だった。《キリスト教》をさかんに攻撃する。しかもその《攻撃》が無知と曲解に基づいているからなおのこと始末に悪い。挙句の果てに《無抵抗で殺された無残なしるしの十字架をなんで有り難がって信じているのか。それだけでもキリスト教は邪教だ、と分る!!》と来た。わたくしの応対は丁寧すぎたといえば丁寧すぎたのだろう。《成仏ってどういうこと?キリスト教では神は神、人は人で決して渡る橋はないんだ。ただ、それでは切れているのかって言えば違うんです。接している。このままで。シッダールタと釈迦とは同じなんですか違うんですか?》などと《抵抗》したが意味をまるきり《分って》はもらえなかった。わたくしは言葉を失ったが、要するにこの女性は、《仏法を信じなければ地獄に落ちるぞ、業病にもかかるぞ、死んだら腐臭を放つぞ、死後硬直もするんだぞ。信じなければ不幸になります》と脅かす。しかしわたくしは《わたくしが信じようと信じまいと、すでに神と人との接触は少しも損傷を受けずに成り立っている。わたくしはそれで充分、死んだらどうなるかなんて関心はない》とつぶやいたり叫んだり。
恐ろしい思いのするひとときだった。彼女に言わせれば彼女の勧める《教え》以外はすべて《邪教》なのだそうだ。恐ろしいとばかりも言ってはおれない。それでわたくしは、この女性に対しては《出て行って欲しい》と玄関から外に追い出しておいて、《わたくしが言うキリスト教ってせめてどんなことなのか分って貰いたい、これを読んで欲しい》と、20年前に故先生の訃報に接して自分で書いたわたくしにとっての初めての聖書観・・・《瀧澤先生を悼む》・・・を友人に送ることを約束した。
それにしても恐ろしい体験であった。
|
|