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Iさま、では、レジュメ送らせていただきます。日曜日までに。注を整えますので。また、体調、回復しつつあります。励まし、ありがとうございます。
さて、前の書き込みで「神格化」という言葉を使いましたが、ちょっとずれた感じがしますので、ひとことしたいと思います。
「神格化」というより、いわば「わたしの滝沢」の横行と言ったほうがいいでしょうか。わかる範囲で滝沢を分かってしまい、滝沢のもっている異様な側面(?)には目をつむる。そういう態度で滝沢を論じ、また非難することです。
もちろん読み方は自由です。しかし、滝沢を学的に論じる場合にもそういう態度が目立つのには大いに不満だと言うことです。たとえば、ほんの一例ですが、青野氏の「滝沢」の使い方など(『思想のひろば』18号、拙書評参照)。
早い話が、「互いの比喩としての貨幣とキリスト」といった、晩年、かなり滝沢が気に入ったと思われる思想について触れたものは皆無。天皇論も然りです。みんな知らんぷり。いまだに「インマヌエル第一義、第二義」だけでやっている体たらくです。
というわけで、わたしは「揺れる滝沢」に次いでいま、「他者としての滝沢」ということを提起したい気持ちです。滝沢は戦後思想の地平をくぐって、そこからはみ出す思想家だといってみましょうか。それ(こ)をこそ肯定、または、否定しなければならない、と。
佐藤優の論壇への登場は、「他者としての滝沢」に注目をあてさせる、われわれにとって一つの僥倖であったように思われます。また、そうしなければいけないように思います。
なお、佐藤が注目されるのは、その論が、戦後日本思想の根本問題(実存と社会、資本主義と社会主義)を、そしてそれのみならずさらに、近代日本思想の根本問題(近代化と天皇)をカバーする「大きな思想」だからです。時代に誠実に対峙してきた滝沢にそれら問題との格闘の跡があるからこそ、両者に共振がおきているのだと思います。
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