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先日、テレビで鹿児島県議の選挙違反捏造捜査事件再現ドラマを見、今日、新聞で富山県の冤罪事件の報道を読み、無実の国民が、ある日、関係ない事件で逮捕され、有罪となる、ということが、現実に行われているということに、恐怖を覚え、佐藤優氏の「国策逮捕」が、現実見を帯びて感じられました。
また、いま「満州帝国」の歴史を読みながら、つくずく、国家権力の恐ろしさに想いを深めていますが、いよいよ、滝澤が国体を論じ、若き学徒を戦場に送った国側の人間として考えると、また違った意味で「人間の罪と罰」に想いいたります。カール・バルトが東洋から来た若き秀才滝澤に見た、「危うさ」は、そのまま「滝澤神学」に潜んでいるのではないか。
滝澤を学ぶということは、「滝澤の生きざまと主張が、どこまで聖書のイエスと同じで、どこが違うのか、」という論証をすることであり、後学に学ぶ者の責任と義務かと、思います。
昨日のテレビの「国会中継」で首相自らが、自分の後援会に国の補助金を受けている企業からの献金を認めながらも、「わたしは知らなかった」とひらき直る総理大臣に、あいた口が、ふさがらない想いです。「返せばいい」というものではないでしょう。責任を取るということは辞職するということでしょう。
「満州事変」「上海事変」など軍部で画策され隠蔽された侵略戦争は、こうした政党政治のトップが、ほんとうに国を愛して、国民の幸せを考えていれば防げたのではと疑問になります。しかし、当時の(満州帝国創設時)の国民が、こうした軍部の独走を、歓迎していたという事実もあります。
ほんとうに国を愛するとは、時代の流れに抗して生きるということなのでしょうか。ここに、またイエスの生きざまがイメージされてきます。
だんまさん、またこのブログを読まれている皆さん、霊界で生きておられる滝澤先生の、あの、やさしい笑顔を思い出しながら、日々、精一杯、生きていきましょう。
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