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滝沢克己の魅力は「戦前の知性の輝き」と「戦後の軌跡」にあると思います。
「戦前の知性の輝き」というのは若くして西田・バルトと対峙したことです。これはすごい。「戦後の軌跡」というのは文部行政への批判、宗教との、またマルクス主義との対話、そして全共闘とのかかわりです。
もちろん、「戦前の知性の輝き」といっただけでは、かれを偉人伝のなかに平板化することになるでしょう。その輝きが、後に「人間の原点」といわれた特異な一点に関わることを忘れることはできません。
また「戦後の軌跡」とは、なによりまず、この原点の光が持続的に発せられたことです。そこに「ブレない滝沢」がいます。が、同時に、戦争の体験からその光の表現形式に反省が加えられていったことも逸することの出来ないことと考えます。
わたしがいいたいのはこの二つ、つまり「ブレない滝沢」と「揺れる滝沢」がどこまでも相関的だということです。「往相・還相」といった理由です。
このことはいわゆる「ハイデッガー問題」を想起するとき明瞭です。「偉大な言葉」がナチスへのコミットの中で表現されたことで問題となり続けているからです。(もっともわたしの知るのは間接的なヨーロッパ、それも主にフランスとドイツ、および日本の事情だけですが)
ところで、相関性を原点のほうから言えば、原点は滝沢をして権力と対峙せしめ、自己を絶対化する「宗教」、また宗教を否定して人間を絶対化する「社会理論や運動」と対話せしめ、これらを解体し、さらに学生や市民といった小さきものに結び付けたといえるでしょう。(この辺はもっと慎重に詳細に語らなければいけませんが)
それは、律法主義とたたかったイエスの宗教、また、カースト制度や部族主義とたたかったブッダやムハンマドの宗教に通じるといったら、世界宗教を冒涜することになるでしょうか。
滝沢の側からも「わたしをそんなに持ち上げるな」と抗議の声が出ることでしょう。
しかし、滝沢が一貫して言っていたのは、わたしたちひとりひとりが、聖書のイエスのように直接原点の光を生きることができる、ということではなかったでしょうか。そこでは、誰も見捨てられていないし、見捨ててはならない、と。
わたしはここに、「こころある人」「こころある知識人」「こころある日本人」をみたいと思います。「品格」という言葉で問題になっているのはこの「こころ」でしょう。もっといえば「原点の光」だと思います。
国策捜査が荒れ狂い、デリバテイブやサブプライムローンといった資本主義の無政府性が世界を襲い、テロとの戦争と言っている米国大統領から第三次世界大戦のことばが発せられ、地球の滅亡が日程に上る現在こそ、滝沢的なものが要請されるのではないかと思いますが、かれの魅力を語って自己満足している場合ではないはずです。
こうした立場から次は「未来の滝沢」を考えてみたいと思います。
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