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滝沢克己著 「仏教とキリスト教」 法蔵館 p157
現代において真に自然な人間の生活=社会を実現するためには、私たちは、どこまでも現実の行のために、かつこれに即してではあるが、しかし人間に従属する限りの行からは独立に、真に客観的にこれを観察し、批判する明確な理論を産み出さなくてはならない。
そうしてそのためには、まず禅者みずから、百尺竿頭さらに一歩進めて(禅の公案 投稿者加筆)、その自覚の成立の根柢に、それに先立ってすでに在りかつ働いている神人の統一と、そこに含まれている区別もしくは関係の絶対的な不可逆性を明らかにしなくてはならないであろう。けだしこのことはけっして、久松博士のいわれる意味で「対照的」な「有神論」や、「他律的」な「啓示宗教」に転落することではない。
現代人に受け容れえない「知性の犠牲」を強いることではない。いなむしろ、それはいわば禅的自覚そのもののしんに事実上含まれている真実の法を、ほんのもう一歩あきらかに見る、あるいは、言いあらわす、ということにすぎないのである。 滝沢克己著 「仏教とキリスト教」 法蔵館 p157
滝沢克己が、神と人との根源的関係について提唱された、第一義、第二義の接触、不可分、不可同、不可逆は、「禅的自覚そのものの芯に事実上含まれている真実の法を、ほんのもう一歩あきらかに見る、あるいは、言いあらわす、ということにすぎないのである。」と言われているように、
滝沢は「禅的自覚によって真実の法」を明らかに見て、見性されて、そして「真実の法」、およびその場所の構造を言いあらわされ、提唱されたのですね。だから禅者久松真一(号は抱石)を批判され、西田幾多郎(号は寸心)を批判、継承することができたのですね。
また、滝沢自身の「禅的自覚」によって、前回の投稿で「真正のキリスト教は、鈴木(大拙 号は也風流庵 投稿者加筆)・久松両博士のそれに対する批判にもかかわらず、むしろ両博士の禅とまったく同じ立場に立つものである。」。つまり、仏教もキリスト教も同じ原点から出発している、と言われたのですね。
僕は、教えてもらうことばかりです。
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