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滝沢克己 八木誠一 秋月龍 中村悦也 「神はどこで見出されるか」 三一書房より。
八木誠一は「カッセルでの体験」を次のように語っていらっしゃいます。
この話をしたニ、三の禅の老師方は、この体験が禅的なものであることを認められた。p67
そして、滝沢克己が「カッセルでの体験」について『かれ自身(八木誠一 投稿者加筆)の信ずる「キリスト教」が一撃のもとに吹きとばされる「事(実)」そのものに逢着したのだ。私もまた、このことを否定しようとは思わない』と述べていらっしゃいます。
あのとき、カッセルの車中のかれはたしかに、「感覚主義(経験主義)」と「合理主義(理性主義)」、「観念論」と「唯物論」、「汎神論」、有神論」と「無神論」等、世の哲学のもろもろの主義はもとより、かれ自身の信ずる「キリスト教」のそれまで含めて、一切の教条主義・神秘主義(神人合一 投稿者加筆)が―― 知らず識らずただそれだけで立てられていたあの「吾我」とともに―― 一撃のもとに吹きとばされる「事(実)」そのものに逢着したのだ。私もまた、このことを否定しようとは思わない。 p248
と、八木の「禅的な体験」を、滝沢の「禅的自覚」を踏まえて語っていらっしゃいます。
これらの事から、滝沢が彼の「禅的自覚」から言われた「真正のキリスト教は、鈴木・久松両博士のそれに対する批判にもかかわらず、むしろ両博士の禅とまったく同じ立場に立つものである」は、上記のことが裏付けていると思います。そして、「真正のキリスト教」は、『彼自身の信ずる「キリスト教」が一撃のもとに吹きとばされる「事(実)」そのものに逢着したのだ。』と言われているように、今日、世界で信仰されている「キリスト教」のことではないと思います。
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