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ドッポさん、お久しぶりです。Walterさん、初めまして。
僕は、滝沢克己が「仏陀の人と思想」についてどのようなお考えをお持ちであったか、読んだことはありません。しかし「仏教とキリスト教」や「神はどこで見出されるか」を読むとうかがい知ること、推し量ることができると思います。
滝沢克己は、ご存知のように神と人との関係について、第一義の接触、第二義の接触を提唱されました。この事は禅者 秋月龍ミン が仏教に於ける本覚、始覚と同じであると認められ、また滝沢もその事を認めていらっしゃいます。第一義の接触、本覚の意味は神と人とは分かつことができない、神と人とは一心同体である、という意味で、第二義の接触、始覚は分かつことができない神に気付く、禅の言葉で言えば「見性」、滝沢の言葉で言えば「禅的自覚そのものの芯を、ほんのもう一歩あきらかに見る」、「真実の法」、「神の本質」に気づくということで、その「場所」の構造は、滝沢の提唱された不可分、不可同、不可逆であるということであると思います。それに、禅者秋月龍ミンは、不可分、不可同、不可逆を、西田幾多郎の「逆対応」の「断面図」だ、といって説明していらっしゃいます。
そして、「禅」は達磨の流れを引き継ぎ、達磨は仏陀の流れを引き継いでいます。
達磨は(仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人。中国禅の開祖。『景傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。Wikipediaより)です。
また、滝沢が、
「それはいわば禅的自覚そのもののしんに事実上含まれている真実の法を、ほんのもう一歩あきらかに見る、あるいは、言いあらわす、ということにすぎないのである。」 滝沢克己著 「仏教とキリスト教」 法蔵館 p157
と言われていますが、この発言から言えることは、滝沢が禅者と同じように見性(禅的自覚)された、ということだと思います。見性(宗教的体験)しなければ上記のことは言えません。
だから「禅的自覚によって真実の法(芯、神の本質)を、ほんのもう一歩あきらかに見」て、神と人の関係は不可分、不可同、不可逆だといわれたと思います。
また秋月龍ミンは、西田幾多郎、鈴木大拙、久松真一と同じように参禅され、「禅的自覚そのもののしんに事実上含まれている真実の法」を見られたのだと思います。
だから、不可分、不可同、不可逆を、西田幾多郎の「逆対応」の「断面図」だとか、『「逆対応の論理」の中に含まれていた神(超個)と人(個)との「即非」的関係を、よりいっそう明確に取り出して見せてくれたのが、滝沢克己のいわゆる「不可分・不可同・不可逆」の説である』と言えたのだと思います。 神はどこで見出されるか p298
ですから、キリスト教徒滝沢克己も、禅者 秋月龍ミン と同じように、仏陀、達磨の流れの中にいらっしゃって「真正のキリスト教は、鈴木・久松両博士のそれに対する批判にもかかわらず、むしろ両博士の禅とまったく同じ立場に立つものである」と言われたのだと思います。 「仏教とキリスト教」 P152
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