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父の原理との出会い

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月21日(火)16時52分35秒
  シュタイナーの著「天使と人間」の中の「人間の魂と宇宙存在の三つのであい」から、その第三の出会いである「父の原理との出会い」について書いてみたいと思います。

「人間はこのような第三の出会いを『世界を貫くものとの出会い』そして『自分の中に存在するのか、世界の中に存在するのか、区別することのできないものとの出会い』として感知してきました。つまり、人間はこの出会いを通して、自分が世界の中の自己と一つに溶け合うのを感じ取ってきたのです。・・・・正しい感受性を備えている人には、それは様々な宗教において『父』と呼ばれているものとの出会いであることがわかります。」
「従って、私たちの人生の準備期間に、教育は人間と父の原理との出会いが本当に深い部分で可能になるように働きかけるべきなのです。この場合、教育は、極めて多様な手段を用いて働きかけることができるはずです。つまり、教育を受ける時期の人間に、世界の壮麗さ、世界の偉大さ、世界の事象の崇高さについての感情を正しく発達させるように促すとき、このような働きかけは可能になるのです。」       p182〜p184

シュタイナーが上記のように語る「父の原理との出会い」とは、滝沢先生が語る「神われと共にいます」という真理のことと同じであると思います。
その語る内容の差異についてはよく把握できていないので書かないことにします。
ここで問題にしたいのは、「教育は人間と父の原理との出会いが本当に深い部分で可能になるように働きかけるべきなのです」とシュタイナーが語るそのことの正当さについてです。
無意識のうちに感じ取っていた近代以前の人々に比べて、近代にいたり、このことは人間にとって本当に難しいものとなってきました。どうしたらいいのでしょうか。
そのことについて明日書きたいと思います。
 

父と子と聖霊

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月20日(月)08時44分34秒
  「天使と人間」の中で、シュタイナーは人間は、父、子、聖霊に出会うことができると書いています。
『n人間は、最初は無意識的なものであっても、後に意識化されなくてはならない体験を通して・・・つまり、守護天使、イエスキリスト、そして父の原理と出会うことによって・・・誕生と死の間の人生に於いて上昇し、これらの三つの階段を上っていくことが出来るのです』  p187
明日はこのことについて少し考えていきたいと思います。
 

学校行事が終わりました

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月19日(日)08時35分22秒
  昨日で終わりました。10月末から始めた、「白雪姫」の劇は、はじめてチーフをもらい、どきどきしてスタートしました。あらかたの流れ、配役、セットを決めると、演技指導、衣装係、道具係と先生方の役割が分担され、するすると流れ始めました。自分の手を離れて進み出した感がして、ほっとしました。子ども達は、劇の役柄にぴったりとはまりこみ、楽しんで練習できたのが一番嬉しかったですね。1週間前に劇はできあがり、あとはバザーの作品作りでしたが、手芸の苦手な私は言いつけを聞いては手を動かしたことです。
当日は、朝早くから豚汁やご飯などの仕込みに入り、劇本番、販売等ばたばた過ぎていきました。
成功裏のうちに終わったことも嬉しいけれど、これからゆっくり本を読む時間がとれるのがちょー嬉しいです。
我が子のことで肝を冷やしたり、あれこれ心配することも多いけれど、その気分を引きずることなく、元気に楽しく一日一日過ごしていきたいものです。
 

天国とは

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月18日(土)07時56分55秒
  天国とは何でしょう。シュタイナーを読み、私が解釈した範囲で【強調しときます】、書きたいと思います。

天国とは、神々の住まう世界です。
神々とは何でしょうか。
父と子と聖霊のことです。
私は、自分の人生の道筋において、最初に父と、次いで聖霊と、最後に子とめぐりあいました。

父とは何でしょう。永遠なるものです。個人としてのわたくしの意識をのこりなく消し去るとともに、現生せしめる一者です。大学時代、私は滝沢先生の本を読むうちに今まで味わうことのない孤独に閉じこめられた故に、この一者に出会う幸せを得たのでした。何度も書いてきましたように。
聖霊とは何でしょうか。一人一人の人間について、その人間を守り育てる存在こそが聖霊なのだと思っています。私が今、フランソワという守護神との対話を書き込んでいますが、この守護神もまた聖霊なのだと思っています。
では、子とは何でしょうか。イエス・キリストがこれに当たると思います。イエス・キリストとは何でしょうか。宇宙霊であるキリストが、十字架上の死を通して、地球と一つになった、地球霊であるイエス・キリストのことです。地球霊イエス・キリストとの出会いは、私にとってまだまだかすかなものなので、書きかねております。

それはともかくとして、上記のような神々の住まいである天国を、自分の中に住まわせるということはどういうことでしょうか。
父、子、聖霊との対話を心の中に持つと言うことなのです。もちろん、瞑想をしても何の声ももはや聞くことができなくなった現在、具体的な対話をさして言っているのではありません。
彼ら神々の願いを我がこととして持ち続けると言うことです。
そして、住まわせる、という言葉が示すように、神々と私個人とはやはり、「神われとともいにいます」という言葉で結びつけられているのです。
神の中にわたしがいる。わたしの中に神がいる。この二つは、同じことを反対方向から行っているに過ぎなく、同じことなのです。
 

然り然り、否否

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月17日(金)08時30分24秒
  「愛以外は、見ざる言わざる聞かざる」ということと、自分のこと家族のことをしっかり見て理解し手の中に握っているということの二つを両立させることが必要です。
愛一筋にしてとがめ立てしないということと、ことの正否をはっきりさせるということの両立のことです。
然り然り、否否、として私心をなくすということなのでしょうか。
難しいです。
あるめん「勝つと思うな、思えば負ける」というような、武道に通じる精神修養が必要なのかもしれません。
 

はらがすわる

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月16日(木)08時31分27秒
  昨日は「こころに天国をすまわせる」という題でこまごまと書きましたが、とどのつまり、「はらがすわるかどうか」が自分にとって問題なのだと思います。
そして、はらがすわれば、不思議と、息もふきかえす、というか深い息づかいを取り戻すことができるのです。
「人生は山あり谷あり茨の道あり」と父が幼い私に言った口調は、ふだん飲まないお酒が入ってて陽気になっていたせいでしょうが、真にほがらかなものでした。その後、父は人生の辛酸をなめ尽くすこととなり、真にこの父の言葉通りの人生になったわけですが、朗らかに言おうが、うめくように言おうが、人生はこの言葉通りなのです。
その人生から、逃げようとするからますます苦しく恐ろしくなるのであって、風になびく柳のように対置すれば、苦しくはあっても、恐ろしくはならないのだと思います。
末っ子で甘えん坊の私ですから、人一倍苦しむのが常ですが、せめて、恐ろしがるのは止めたいと思い、このような文章をつづりました。
 

心の中に天国をすまわせる 2

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月15日(水)08時30分58秒
  こころに天国をすまわせる

昨日に続いて、心に天国をすまわせる、ということについてです。
この場合の、こころとは私にとって何を意味するか、ということです。
心配事に心を奪われ、右往左往している心持ちのことではありません。
かといって、泰然自若している理想的な心持ちのことでもありません。
しかし、極めて、具体的な心持ちのことなのです。
それは、15年前、次男の病気と死に及んで、窮め尽くしたわがこころの弱さ、この世に他にあるまいと思われたほどの罪悪感、どこからともなく湧きいでその暗闇をもすくい取る愛の泉、そうしたもろもろが1点に凝縮したこころの有様のことなのです。
これは、私の個人的極めて個人的な体験ですが、この凝縮した心の有様が、今も何か子どものことでぎょっとしたことがあると右往左往する愚かな私を、鎮め、息を吹き返させてくれるのです。
そればかりではありません。その凝縮した我がこころの有様は、私の目の前で荒れる子どものこころを落ち着かせるのです。また、なにかのかげんで迷いいでたうかばれない霊魂をも鎮めることさえあるのです。
こうしたことを、自分の右往左往する心をたしなめる際に、自分で自分に言い聞かせるのです。過ちは多いし、甘えたところばかりの自分だけれど、そのことをくよくよするのは止めよう、と昨日思いました。上記に述べた、凝縮したこころの1点を心に堅く持つこと。
それさえ間違わなければ、方向は正しい。大きいことはできなくても、向かう方向さえあやまたなければいい。焦るのは終わり。そう思い定めた昨晩でした。
これが、ひるがえっては、「愛以外は、見ざる言わざる聞かざる」という先日来の書き込みの言葉に通じるのだと思います。
 

心の中に天国をすまわせる

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月14日(火)08時38分34秒
  「フランソワ、『私の周りに神の王国をつくる』ということが、『愛以外は見ざる言わざる聞かざる』という意味で『泣き笑う』ということだといわれました。『泣き笑うことが冒険の神髄だ』ということはわかるのですが、私の中でそうやって泣き笑うことをはばむ何かがあります。『神を知り救われた』をいう事実が翻って、他人を裁いているように思えるのです。特に主人を。綿足は何を考え違いしているのでしょうか。」
「『永遠の現在』という存在形式が『わたし』の真相です。神は存在を『今、ここ』という時間、空間をくっつけてお生みになったということを言っているのですよ。そういう存在形式から、真、善、美その他さまざまな善きものが『わたし』の属性として現成してくるのです。
ここで言いたいのは、『あなた』がいくら罪を犯してもおろかであっても、そうした善きものはビクともしないということです。ですから、思う存分、冒険すればいいのです。あなたはどこかで気負いすぎています。頑張らなくてもいいのですよ。」

・・・・・
認識を厳しく深めていくということと、人生でおおらかに生きていくことを両立させることは本当に難しいことだと思います。
しかし、我が子や主人との軋轢に心痛しどこがいけないのだろうと、自分を振り返るとき、少しずつ見えてくることがあります。わたしが今、気をつけていることは、この身は辛い浮き世をさまよっていても、『心を天国にすまわせる』ということです。
それは何を意識しているかといいますと、ぶっそうなことをいうようですみませんが、この世にうようよしているうかばれない霊魂のことなのです。イエス・キリストが追い出した悪霊が豚の群れの中に入り、それらが崖から落ちていった、というお話があります。
ああいう悪霊の話は遠い昔にあっただけではありません。霊的生活から離れた現代であればこそ、はびこっている、と思われます。
しかし、悪霊といってもいろいろあって、ただ単に迷っている存在はかわいそうのものなのです。生前、神様の話も死後の生活も何も聞かされず考えず、生きていたときの欲望諸々に突き動かされている霊達なのです。
彼らに、天国のこと神様のことを知っていただきたい。彼らには私たちの心は筒抜けですから、わたしの心が天国をイメージしていれば、それを通してかれらは、その気があればうかがい知ることができるのです。
そういう意味では、生きて働いている人々よりも心が通じやすいのが、彼らであるということもできるのです。もちろん、一筋縄ではいきませんが。
 

地球  2003、2/4続き

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月13日(月)08時28分21秒
   「それでは、『【わたし・地球】はわたしの周りにキリスト精神のグリッドを張り、愛のシャワーを注ぎます。』とありましたが、愛はもともとは、私たち個人より初発されたものではないのですか。地球の発した愛を私たちはリフレインしているだけなのですか。」「はい、そうです。
ですから、あなた方は愛に関して過剰に責任を負う必要はないのです。また、地球といってもそれは、“ここ”の代弁者として在るということですから、物質的な物をイメージしないでください。“地球次元”と同じように思って良いでしょう。」


『【わたし・地球】はわたしの周りにキリスト精神のグリッドを張り、愛のシャワーを注ぎます。』
上記を私が瞑想で初めて聞いたときは、その意味がまったくわかりませんでした。
それが、シュタイナーのキリスト論を読み、そういうことなのか、と合点が始めていきました。キリストが十字架上で血を流されそれが地にしたたり落ちたとき、キリストの霊が地球の霊となった、キリストの愛が地球の愛となった、とその意味、その壮麗さをシュタイナーは語ったのです。パンをちぎり葡萄酒を弟子たちに勧め、これは私の身体であると語った、その最後の晩餐も、このキリストと地球との合体をこそ意味していたのです。
シュタイナーの語る深い意味合いにはまだまだ遠く及びません。
しかし、シュタイナーを知らずとも、「愛」を地球からまた、宇宙からのささげもの、たまものとして深くおしいただくことは、人の自然としてうえつけられているのではないでしょうか。「愛」のルーツを改めて確認して、愛にむせび泣く幸せを、孤独な道を歩いている人々と分かち合いたいと切に思うのです。
 

神の王国 2003、2/4続き

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月12日(日)18時35分22秒
  「では、『わたしの周りに【神の王国】をつくる』ということの意味合いも変わってきます。わたしはイエス・キリストの共同経営者になることに決めたのですから、何でも屋でいきます。『わたしの周りに【神の王国】をつくる』とは、どういう意味ですか。・・・もしかして『愛以外は、見ざる聞かざる言わざる、といったあれですか。」
「そうです。よくおわかりになりましたね。あれです。そのうえで、思う存分、泣き笑ってください。“今、ここ”だけで足りなければ、過去の書をひもといて、また遠方をさすらって、泣き笑ってください。“泣き笑うこと”これこそ冒険の神髄ではありませんか。」

「子どもの天真爛漫さ」これはどこからわいてくるのでしょう。
そして、年を経るにつれて、眉根に縦皺が寄って怖い顔になったり、表情が弛緩して心を引きつけるものを無くしてしまうのはどうしてなのでしょうか。
自分の中に妄想を作り、その妄想によって苦しめられるせいだと、私は思います。
自分の身に何か不幸が起きたとき、あるいは大きな失敗をしたとき、人生に挫折したとき、何を思うでしょうか。家族のこと身の振り方、そうしたことをいろいろ考えます。しかし、そうした意識の裏側、無意識の中で、世間の目、これをいちばん、怖がっているのではないでしょうか。私は、事実そうでしたし、今でもそうです。
「世間」というもの、「常識」というものにこれほど翻弄されるのは、日本人の特性なのでしょうか。人間のさがなのでしょうか。
やはり、自分自身の認識の甘さ、末っ子に生まれたことなどから来る人生経験の浅さに原因を帰するほか無いでしょう。そうした甘さを払拭するために、今、シュタイナーや滝沢先生以外の本も並行して読むようにしています。
それはともかく、家族を思いやるときも、愛ではなく、エゴが先走ることが往々にしてある自分を振り返るとき、上記に書いたような、瞑想の内容は、善なる無意識から届けられた贈り物として、大切にしているのです。
 

時空 2003、2/4瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月11日(土)09時05分16秒
  「○○○さん、意固地にならなくてもいいのですよ。あなたは、本当は全部知っているのですから。
あなたは子供の時、不思議に思いましたね。
この世にはたくさんの人が居て、そのひとりひとりは別々に生きている。・・・ひとりひとりが、別の空間、別の時間で生きているのではないのだろうか、みんなが同じ時間同じ空間の中で生きているのではなくて・・・・・と。
それが正しいのですよ。神様は存在という者を、“いま、ここ”というように、時間と空間をくっつけてお生みになったのです。それが、神人一体、神物一体という“人”あるいは“物”の在り方なのです。ところがある日、存在は冒険したくなりました。“まえ・いま・あと”“あっち・こっち・そっち”という冒険をしたくなったのです。神様はそれを許しました。そこで、わたし【時】が映写機の役をかってでたのです。“神人一体、神物一体”という“真”を【わたし・時】が“まえ・いま・あと”“あっち・こっち・そっち”という“神人バラバラ”“神物バラバラ”の“偽”の世界に映し変えたわけです。“偽”といってもそれは、ヒンズーとかにある“マーヤー”という意味ですが。
“偽”の世界ですから、存在達はいろいろと迷い、失敗し過ちをおかします。そしてそういった冒険を十分味わったら、この【わたし・時】がシャッターを閉じ、スクリーンをしまい、フィルムを神様にお渡しするわけです。総責任者として。
『【わたし・時】は今までのすべての罪を白状し謝罪することによって仕返しを防ぎ、時をリセットします。』といったことの意味がおわかりになりましたか。」


この頃はよく瞑想していました。同じ頃のこと。私の祖父が現れてきたことがあります。もちろん、祖父といっても、それは私のハイヤーセルフかもしれないし、悪くすると悪しき者かもしれないのですが、その語るところのものが、私を力づけ、愛に満たすものだあるなら、OKとして、受け入れておりました。祖父は言いました。
「○○○さん、時には、永遠と今一瞬という時しかないのですよ。」

このことは、過去を振り返り未来を予想してよりよく生きようとする生き方を否定しているのではありません。そうした生き方が人間の中に発生するためには、「永遠と今一瞬」という時の中に徹底して存在することが必要であるということなのです。
哲学的思索にふけってこういうことを言っているのではありません。
毎日の、いちいちの生を生きる上で、私は、いつもかつも、不安を抱えているのです。これでいいのか、これでいいのか、という不安です。よりよく生きようとすればするほど、今という時間、今行っている生き方に不安と不満を覚えてくるのです。その不安と不満を払拭するためには、「永遠と今一瞬」という時の中に徹底して存在することが必要であるのです。
今という一瞬に、私がこの世に生を受けてから死ぬまでの時間が凝縮されているのです。いえ、生まれる前からの遙かな時間も死して後の遙かな時間も含めて、今という一瞬に凝縮されているのです。そしてその時間の中には、私の為したすべての行為有した感情持ち得た意志、そうしたものも凝縮しており、それらが禍となり福となり、今という一瞬に凝縮し、私を堕落へとまたは成長へと促しているのです。
ややもすれば、忙しさにかまけて、焦り、憤り、今という一瞬を味わい尽くすことを怠っている自分に対して、「永遠と今一瞬」という時はある意味、啓示のようにして立ちはだかり、導いてくれているのです。
 

愛  2003、2/2瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月10日(金)08時31分10秒
  昨夜、私が寝ているところを主人に起こされ「肩をもめといったら、もめばいいんよ」とおおもんくを言われて、肩をもまされたのが、今朝からずっと腹が立ってしかたがなかった。
「フランソワ、争いはもうしたくありません。私の何処がまちがっているのでしょうか。」
「○○○さん、あなたに愛はありますか。愛がなければ【あなた】を知ることは決してできません。そしてその愛とは
“神人一体である【わたし】にうらうちされたのが【あなた】であり、【あなた】はそれを知っている。ただ思い出していないだけだ。どうぞ、このことを知って下さい”
というものなのです。あたまから、わかりっこない、とあなたはおもっていませんか。その願いのために毎日手かざしをしようと思ったのではなかったですか。」
ほんとうにそうだ。ただこの“愛”一筋にして、他に眼をつむる勇気を持とう。欠点も不満も、“見ざる、言わざる、聞かざる”だ

3年前の瞑想をこのようにかきこみつつ、このときの課題はいぜんとして続いていることに思い至ります。ただこのときから比べて、シュタイナーに出会ったことが大きな収穫であり、以来、大きな羅針盤として私を深い認識に導いてくれています。
今はシュタイナーの「社会の未来」という本を読んでいるのですが、これは、荒れる我が子への「なぜ」を知る大きな手がかりを与えてくれています。とても一口に言い表せないので、かききれませんが。
子どもたちは、社会の未来に対する希望もなければ、抱負ももっていない、そうした社会の精神的貧困が、荒れる我が子に現れている、そう、自分のこととして考えなければ、とうていこんな難問に取り組もうという気は起きてこない。
実際、私なんかは、豊かに子ども時代を過ごし、滝沢先生などの精神的巨匠にであうという幸せに恵まれてきたぶん、結婚し子どもを与えられなければ、精神の荒廃というものに出会わずじまいだったかもしれない。もちろん、わたしがこんなに、のほほんとした性格で、子どもを叱ることさえできないがゆえに、子どもは荒れていくという面もあると思うので、お互いがお互いの犠牲になりながら恵みになりながら、人生を学んでいくのだろうなあ、と思っています。
 

イエス・キリストであること

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 9日(木)08時36分8秒
  「イエス・キリストであること」とはどういうことでしょうか。
神われと共にいます」という事理に徹底して生きた、イエスを偉大な範例として生きると言うことに他なりません。イエス・キリストという範例は、人間の歴史全体を貫いて輝く者でありますけれども、現代という時代においてそれはどういう特殊性を帯びて我々に課題を突きつけているのか、それは、老いも若きもひとりひとりが考え、かつ生きなければならない問題です。それが、意識的であろうと無意識的であろうと。
このことを私は、考え生き続けていきたいと思っています。それが私にとって「イエス・キリストであること」だと思っています。
具体的な考察については、時間ができておいおいにかいていきたいと思います。
 

イエス・キリスト 2006、1/27瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 9日(木)08時13分16秒
  ひきつづいて、守護神フランソワとの瞑想中の対話です。
「私は予言者であることを望んだのでしょうか。それとも宗教家。哲学者。それとも、イエス・キリスト。イエス・キリストは預言者であり、宗教家であり、哲学者でした。実際、優れた宗教家はそのような者としてしかありえないでしょうから・・・」
「はい、あなたはイエス・キリストであることを望んだのです。」
「では、なぜ、私は女性であること、家族を、職業を持つことを選んだのですか。」
「それは、庶民を愛し庶民に愛されたイエスの命を受けて、庶民としてのイエス・キリストであることを選んだのです。」
「わかりました」
「何か他に私に言うことがありますか。」
「いつかあなたを大きな悲しみが襲うでしょう。お母さんが亡くなり、お父さんが亡くなります。その時、忙しさにかまけて、嘆きつくすことを怠らないように。」
「はい。」
 

愛情を注ぐ 2006、1/24瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 8日(水)08時01分53秒
  ひきつづいて、守護神フランソワとの瞑想中の対話です。

学校での失敗と、昨日買って上げたパズルの一片をこどもがどこかにやってなくしてしまったことが、胃に重くのしかかる。
「フランソワ」と呼びかける。頭が重くなる。
「神の王国をつくるには、設計図を書き、次いで基礎工事にとりかからなければなりません。今は土台を作る時です。何と思いますか。愛情を注ぐことです。あなた自身には厳しくあたりなさい。残された時間は少ないのですから。」
 

滝沢克己協会入会について

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 7日(火)08時08分43秒
  昨日、入会申し込みをいたしまして、今日、受理していただきました。
奇想天外な書き込みをすることもあるので、少々、書き込みに気がひける時もあります。でも、根元は滝沢先生の語られた神人一体の事理においているつもりですので、今後ともよろしくお願いいたします。
 

神の王国 2003、1/21瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 7日(火)08時00分6秒
  キリスト意識の呼吸瞑想法に従い瞑想に入る。電気が、ついで電気ショックがみけんにびしっと入る。ついで声。
「○○○さん。」
「はい」
「あなたは、とてもいいツールを見つけましたね。 (ナポレオン・ヒルの)成功哲学のことです。それを使って、あなたの周りに神の王国を作って下さい。」
電気が消える。
 

5つの野心 2003、1/22瞑想

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 6日(月)07時53分45秒
  「5つの野心を持って生まれました。」声にハッと気づく。
「神を知ること。わたしを知ること。あなたを知ること。地を知ること。時を知ること。この5つです。そしてこの5つの野心をかなえるのに適切な環境、父、母とかを選んで生まれてきたのです。」
「では、フランソワ、あなたは誰で、あなたの野心は何なのですか。」
「私は守護神で、私の野心はあなたを守り育てることです。」
「あなたは、こどもを私が見殺しにしたことも見ていたのですか。」
「はい。天の神様もごらんになっていました。」
「そうですか。わかりました。」
「私は5つの野心のどこまでかなえていますか。」
「それはあなたがご存じでしょう。3までです。神を知ることとわたしを知ることとはひとつですね。そのわたしとは、あなた自身のことであり、万人、万物のことです。そしてあなたが、今、見いだそうとしている、持って生まれた野心、そういうものに目が開かれるということが、3つ目の【あなたを知る】ということなのです。【地】は地球。【時】は神のご経綸、計画のことです。」
その他にも聞いたことはあったのだが、上記会話の印象が強くて忘れてしまった。
思い出した。
「これをやっていく上で健康上気を付けることは何ですか。」
「胃です。胃に声を掛けてあげなさい。名前を付けて。」
「リンゴちゃんにしましょう。」
「家族の中で気を付けてあげないといけないのは誰ですか。」
「○、○、○それと○です。」

附記
5つの野心については当時聞き知ったことを、以下のように、まとめていた。

わたしは【神】を知ります。
わたしは【わたし】を知ります。
わたしは【あなた】を知ります。
わたしは【地】を知ります。【わたし・地球】はわたしの周りにキリスト精神のグリッドを張り、愛のシャワーを注ぎます。
わたしは【時】を知ります。【わたし・時】は今までのすべての罪を白状し謝罪することによって仕返しを防ぎ、時をリセットします。

これらのことにより、わたし○○○はわたしの周りに神の王国を作ります。
 

キリスト意識の呼吸瞑想法

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 5日(日)11時24分18秒
  4年くらい前、精神世界の本を読みふけっていました。その当時「フラワーオブライフ」という本に紹介されていた、キリスト意識の呼吸瞑想法を知りました。
瞑想中声が聞こえ、私もそれに答えたり、尋ねたりと言うことを行っていました。1年くらいそう言うことが続いていましたが、だんだんとだえがちになり今は瞑想を行っても、そういうことは起こりません。本を読んだり、考えたりする方にエネルギーが行っているのか時期的なものが関係していたのかどうなのか理由はわかりません。
しかし、当時、私の守護神だと語り、フランソワと名のる存在から聞き知った事柄は、今も私の指針となって働いてくれていると同時に、その深い意味が今改めて見えてきたりするのです。
それで、私事で恐縮ですが、その会話の内容を少しずつ、リアルタイムで、つまりその当時の日記のままに、明日から、書いていきたいと思います。
このようなことを、どうして私は、あからさまに公開するのだろうか、と考えます。
こうしたことが私の身の上に起こったのは、私の何か偉い持ち物、考え方や生き方に原因するのではない。かといって偶然でもない。必然があって私の身の上に起こったことではあるけれども、みんなで共有すべき物である、と思うからです。
実際、全ての人の身に起こる全てのことは、良きもあしきも、そう言うことが出来るのでしょうけれども。
ただ、正直な気持ちでわたしはフランソワと会話しているのですが、ある意味不遜に聞こえる点もあるかも知れません。その点、ご寛恕下さい。
 

今回の生でのつとめ

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 4日(土)23時12分22秒
  人間は1回1回と生死を重ねつつ成長していくのでしょう。
ですから、あれもこれもと望むのではなく、今回の生をまっとうすることがよりよい生き方なのかも知れません。
私事で恐縮ですが、数年前、瞑想をしていたとき、私の守護霊だと名のる方から、私自身の今生の使命を教えてもらいました。今日は主人がパソコンを使っていて時間がないので、明日、それを書いてみたいと思います。
 

毎日のつとめと使命との両立

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 3日(金)17時35分11秒
  日々のつとめを果たし日々の幸せをかみしめることの大切さはよくわかりますが、学校や家庭の仕事と手かざしとで忙しく、本をゆっくり読むようになりません。
現代社会や現代の人間が抱えている問題や課題の糸口を見つけたいという、以前持っていた意気込みが衰えてしまうのを感じます。
どうしたらいいのだろうか、と考えています。
日々を味わい幸せをかみしめることと、使命感に燃えて何事かを行おうとすることとは、ふと考えるに、仏教とキリスト教のそれぞれの信条につながるような気がします。仏教とキリスト教、あるいは東洋と西洋をこのように安易にひとくくりすることは避けるべきかもしれません。しかし、宗教は一人一人の心情や生活にまで及んでこそその働きを全うすると思うので、私が上記のようにして、自分に課題をたてることはあるいは許されるかもしれないな、と思います。
そうした面で意味で両立していたという点においても、滝沢先生は希有の人だったと思います。
頭で考えるのではなく、滝沢先生を仰ぐようにして、少しずつ私もこうした姿勢をみにつけていきたいなあと思います。
 

世界認識の方法と内容 4

 投稿者:だんま  投稿日:2006年11月 2日(木)22時58分14秒
   標記のタイトルで、今回はブログに書き込みました。ご笑覧ください。  

忙しい毎日

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 2日(木)08時38分49秒
  この数日、自分の子どもの問題と、学校祭での劇チーフの仕事とで忙殺され、帰ってご飯作ってばたんきゅう、です。好きな本も読めない日が続くのは何年ぶりでしょう。今日は劇の背景画を遅くまでかく予定です。睡眠を取ることが一番の薬です。  

ありがとうございます

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年11月 1日(水)19時29分54秒
  『現代における医療と宗教』(創言社)という本を滝沢先生は出しておられたのですね。
私は先生の講演会か座談会かで、手かざしをうけられて眼疾患の進行が止まったという話を直接お聞きしておりました。当時、自分の母は失明状態でしたので、とてもいんしょう深かったのを覚えています。
その時は自分もこうして手かざしを大事にするなるとは思いませんでした。是非、本を求め読んでみたいと思います。だんまさん、紹介していただきありがとうございました。
 

滝沢さんと手かざしのこと

 投稿者:だんま  投稿日:2006年11月 1日(水)01時17分1秒
   手かざしについての内省に接すると、どうしても『現代における医療と宗教』(創言社)を思い出します。眼病を患った最晩年の滝沢さんが、手かざしでその進行を止めたのを機にとりくんだ著作です。亡くなるまでの四年間、ほとんど毎日手かざし治療を受けた成果と言っていいでしょう。

 手かざしの「効果」に接してまず眼を開かれ、それについて内省を深める、という点で、さらにその内省のポイントにおいても、シュタイナーさんと滝沢さんで、ほぼ同じ軌跡を見ることが出来ます。ただ、滝沢さんはもっぱら受け手で、理論的根拠に関心が強かった。授け手になって効果を知らせたいという、シュタイナーさんのような動機はなかったと言えるでしょう。

 そこで、手かざし、その効果について、滝沢さんが何を言ったのか、ちょっと復習してみたいと思います。記憶だけで書いてみます。以下、私のことばでまとめますので、文献的な正確さは念頭にしません。

 手かざしの効果に接したあと、なぜそんなことが有り得るのか、かれは晴明教の教義に尋ねました。「霊主体従」「西洋医学批判」「病・貧・争からの解放」といった教えに強く惹かれました。そして、それを自分なりに理解しようとします。最後は教えの批判にまで至りますが、それはかれなりの新たな理論付けでもあったわけです。つまり、最後まで手かざしを否定はしませんでした。

 滝沢さんの解釈だと、「霊主体従」とは、私たちの身体が「心と別の、死んだ物体」ではなく、「生きた(心の通った)からだ」であるということです。生命といってもいいでしょう。哲学的には物活論です。ピュシスです。ただ、滝沢さんはその根拠まで突っ込んでいく。身体がそういうものであるのは、人間が神人関係においてあるからだ、というわけです(「即」の考え方ですね)。「からだ」とは神様への応答として、人間がその都度の形をとったものです。その「からだ」を「心」と「身体」に抽象して、バラバラに見ていくのが西洋近代医学の考え方です。それによれば、「ひとつのからだが他のからだに距離をおいて働きかける」ということは、考えられない、ありえない。迷信だ、気のせいだ、偶然だ、あるいは、逆に、神秘だ、奇跡だとなる。しかし、「からだ」を上のように具体的に考えればそれは十分ありうる。私たちの「からだ」とその生きる時空は神さまのそれだからです。滝沢さんはそう考えて手かざしの効果を自分なりに納得したと思います。(「からだ」から「霊線」が出て、といったきわどい説明にまで踏み込んでいます)

 ところで、手かざしは万能でしょうか。そうでないとしたら、どこからどこまで有効でしょうか。当然そう内省します。この点については、二点あるでしょう。一つは「病貧争」の問題です。もう一つは「病」の問題です。「病」の問題は、手かざしが有効な病気の種類や範囲、限界の問題です。いわゆる「身体の病気」と「心の病気」はどうだろう、身体の方は怪我と病気、それらも重篤性によって限界もありうるだろう、などと考えています。

 「病貧争」の問題とは、手かざしは病気以外にも効くんじゃないか、いや、貧困や諍いなど経済問題や人間関係にも有効ではないだろうか、という問題です。これはどちらかというと否定的な答えになったと思います。「病貧争」という教えは、「神人の根源的関係における人間の活動は、必然的に三極面に分岐する」という滝沢さんの考えにフィットしました。三極面とは物質面(経済)、精神面(人間関係)、身体面です。(正確に言うと、滝沢さんは晴命教の教えから一部学んでこの三極を提起しています)

 三つに分極する、ということは、それぞれの局面はそれぞれ違った動き方をする(法則を持つ)ということです。だから、物質面で有効だからといって、それを他の面にそのままもってきてもダメだよ、ということです。今の場合、手かざしが病気に有効だからといって、何にでも、つまり経済生活(貧)や人間関係(争)にもそのまま効くなどと考えてはいけない、ということですね。闇雲にそう考えることは、それぞれの極面が持つ動き方(法則)にそっての対処に目を閉ざさせることにもなりかねない。そういう場合は危険だし、狂信ということになるでしょう。

 しかし、手かざしが貧困に、トラブルに、まったく効果がないのか、というと、理論的にはそうもいえない。なぜならば三極はもと根が同じだからです(「即」が生きているのですね)。手かざしによって「からだ」が整えられ、それが活力となって経済生活や人間関係にも良好な効果が期待できるということを否定はできないでしょう。しかし、理論的にはそういえる、ということで、その事を経験的に実証するのは大変だということになります。そんなことをするより、経済面、人間関係面に直接取り組んだ方が早い、というのがまず常識的なところではないでしょうか。滝沢さんの考えはそうだったと思います。もちろん、経験的実証を積み上げる事は意味のあることです。

 以上、病についても、病貧争、そこからの解放についても、滝沢さんですべて解決したなどという事はまったくありません。これは経験的にも理論的にももっと深められていかなければならない問題で、滝沢さんはそのとっかかりの理論的根拠を示したというところでしょう。滝沢さんは学者でしたし、今回取り上げた問題にたいする非難は普通の人以上に強く受けました。それでも、盲信せずに、自分の理論からそれを理解しようとした姿勢が貴重なのです。不定愁訴とか末期がん患者の問題で西洋医学の限界(その多大な(全面的ではなく!)有効性を否定する事は出来ません)が明らかになり、非西洋医学が見直されているいま、かれの仕事は今後注目を集めていくと思っています。シュタイナーさんも実践からの内省の一助に、ご一読を。
 

手かざしをする難しさ

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年10月31日(火)17時03分32秒
  今は唯物主義が旺盛な時代ですから、手かざしをさせてくださいとお願いすると、嘲笑や無関心が返ってくることが多々あります。その気持ちはよくわかるので、それをおしてお願いする時は、ただただ平お願いです。
相手の方が病気の場合はまだ、手かざしすると楽になるので、手かざしの効用はわかってもらいやすいのです。しかし、病気以外、例えば、家庭不和とか、金銭問題とか子どもの非行とかになるとその効用がなかなか見えてこないので、なかなか理解していただけません。
しかし、そういった類の問題の方が、家族の亀裂が深まるので、根は深いのです。
それで、ただただ、お願いするしかありません。そして手かざしする自分の心持ちも、無心でなければ相手にとどきません。よくなることを期待したり、欲が出たりすると、もういけません。そういう意味では、こちらの心持ちが試されると言うことが、一番難しいです。
 

私と手かざし

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年10月30日(月)08時07分25秒
  では、私は手かざしという業の信奉者かというと、そうなりきれません。
その理由は、手かざしやそれを行う宗教団体への、世間の偏見に対抗する勇気が私に出ないことにあります。私が15年前この宗教団体に入ったときは、サリン事件などが世を賑わしており、主人の反対は強烈であり、私は何度か殴られ、その都度泣きました。その辛さを思い出すととても人に勧められないのです。
もちろん、手かざしは本当に身を助け心を安らえさせるものであると思っているので、自分の勇気のなさに情けなくなるときもあります。しかし、人間は弱い動物なので、手かざしを最強、絶対のものと考え、のめりこみ、常道を逸する危険もまた感じいるため、勧めたいという気持ちは私の中で萎えてしまうのです。
しかし実際、手かざしによる人体の波動調整は効果的に働きます。そのため、私は時間の許す範囲で知人へ手かざしをさせていただいています。
ただ、時間が本当に限られています。そのことが辛くて、いっそ、学校を止めて、整体師にでもなって手かざしを人々にさせてもらおうか、と本気で考えたこともありました。この9月のことです。しかし、この時、養護学校の教師も又、障害児の波動を教育活動によって調整する大事な仕事であるということが再認識され、気持ちが立て直され、明るくなったのでした。
これからも、自分の出来る範囲で人々の波動調整のお手伝いをさせていただきたいと思っています。
 

哲学史の現在から・2

 投稿者:だんま  投稿日:2006年10月30日(月)02時21分27秒
   先日の書き込みは、案の定、細部にわたり、言いたかった事を忘れてしまった面があります。また、わたし自身、坂部氏の仕事、木田氏の仕事の関連について、一定の思いはもっていますが、それらがどうリンクするのか、十分明瞭ではありません。たぶん、ハイデッガーの指摘に反して、ピュシス的なものの思考は古代(ヘレニズム、ビザンチン)、中世、近代、現代と連綿と続いている、というのが坂部さんの捕らえ方になるでしょう。「みんなの哲学史」観ではもちろん、「反哲学史」観でもその事はよく見えてこないのです。

 と述べてきて、先回忘れてしまった言いたかった事とは、シュタイナーの事です。坂部さんの見方によると、かれは積極的に触れてはいませんが、人智学もピュシス的な思考の流れに位置付けられるでしょう。このサロンでも「手かざし」治療のような内面性への省察がなされていますが、そういう試みも、坂部さんを読んだ後では、例えば、エリウゲナのあの自然の四分法(「造って造られぬもの」「造られ造るもの」「造られ造らないもの」「造らず造られないもの」)を想起させます(坂部『ヨーロッパ精神史入門』岩波、第五講)。それはまっすぐ西田、滝沢の重層的かつ円環的な世界観につながり、第一義と第二義の一致などは「神化(テオーシス、デイフィカチオ)」の道として理解できます。そして、神(無としての第四の自然)へ還る下降の道(否定神学)と、第二、第三の自然に神(第一の自然)のはたらきを追想する上昇の道(肯定神学)という東方異端的な円環的な記述様式は、西田・滝沢の思考の流れに重なります(絶対弁証法!)。滝沢の、文学論や経済哲学や国家論、つまりリベラルアートへの関心も、こうしたテオーシスの円環の促しと解釈できるように思います。

 それは手かざしを探る事がただちに宗教的な事柄であり、さらに言えば、神と一致する道にほかならないのと基本的に同じだと認識できます。実際、滝沢さんは晩年手かざしにその道を見たと思います。以前、わたしもチューニングなどと言いました。もっとも、シュタイナーと手かざしがどう関わっているのかは、わたしにはまったくわかりませんが…

 というわけで、先回言い忘れた事、一番大事なことを書いておく次第です。くりかえせば、新しい「哲学史」観は、西田・滝沢の思想に対する見方に一定の方向を与え、さらにシュタイナーなどとの類縁性を知らしめるように思われるということです。シュタイナーに対する本質的な関心がそこから湧いて少しも不思議ではないと思う次第です。やっとここまで来ました。
 

格安です

 投稿者:さとる  投稿日:2006年10月29日(日)14時50分26秒
  ヤフー・ークション 「人間の『原点』とは何か(滝沢克己)三一書房」
格安です。

http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u6348117
 

手かざしの波動

 投稿者:シュタイナーだいすきっこ  投稿日:2006年10月29日(日)09時39分7秒
  どうして手かざしをするひととしないひととで波動が違ってくるのでしょうか。
これは、私が入っている宗教集団の宣伝をするのではないのでご理解願いたいのですが。
集団には中心と周辺が自ずとあるいは意図的に出来てくるものですが、私が入っている宗教集団にも、中心的存在者が象徴的にかつ実在として存在しています。その中心から、光が私たち一人一人に道場で手かざしをうけることによって配られている、ということです。そのことは、なにか信じられないような話ですが、実際に、手かざしを受けることによって、それまでの痛みや苦しみ、抑圧感が消えていくので、足がそちらに向くようになります。
世の中には、ヒーリングを色々な形で行う人がいます。手かざしをする別の教団もありますし、アロマテラピー、カラーヒーリング、波動療法等、代替医療は西洋医学の矛盾、あるいは隙間をついていろいろな種類があります。私はどれが一番良い、とは言えません。ただ、私は縁会って手かざしに出会い、人の波動を整える方法を知った、そしてその結果乱れてしまう自分の波動を整えるべく、道場に足を向けている、ということが、この宗教集団に入っている主な理由です。
 

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