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閲覧者さんへ

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月 9日(水)14時03分17秒
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  「過ぎたるはなお及ばざるが如し」といいます。擬人神観に対する批判としてはクセノファネスのそれが有名ですが、彼もまた、その過ぎた批判を批判されており、聖書においては特にJ資料に顕著とされる擬人神観の意義はけっして否定されるわけではないとは思いますが・・・私はこのような、神についての思弁を弄する場にかかわる場合、「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」という言葉をいつも念頭に置いています(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18)。「思考停止」というか「思弁停止」ですかね(笑)
ところで、先日の「教えて下さい」への返事に八木誠一先生の言葉を引用しましたが、貴殿もSさんへの変異で八木先生の言葉を引用しておられたので嬉しく思いました。
「・・・神は人格主義的に、また場所論的に、語られる。神自身は場所でも人格でもない。結局のところこれらは比喩である」という、この一文は確かに聖書が示す「神」について論じる上では共通認識というか了解事項とも言うべき大前提だと思います。八木先生は「神については比喩を用いて語るしかない」とか「『人格』と『場』という両方の比喩が必要」であると述べておられます。
Sさんの言い方を借りるなら、人間は「神」を比喩的にしか言い表せないという限界を自覚して論じるのと自覚せずに論じるのとでは雲泥の差があるということだと思います。
ちなみに遠藤周作氏の場合は、おそらく八木先生の影響によってでしょう、「神」を「はたらき」だと言っています。『私にとっての神』というエッセイで、「病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。神は存在じゃなく、働きなんです。 」と述べています。そして、「私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。 」と述べていますが、この「主人公」であるロドリゴ神父を通して「神」は「沈黙」していなかったということが、この全体的に暗すぎる作品の中に希望の光を灯しています。イエス・キリストの「おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない」といったセリフですね。ここで遠藤氏においてはキリストと神とがまさに一体です。「はたらき」であって存在ではないので実体的区別もないというわけでしょう。
ところで、遠藤氏は「神というものは対象ではありません」とか「神は存在じゃなく、働きなんです」と言いながらも、「背中を何かが押してくれてきた」というように、まさに「神」を擬人的に(・・・人格的対象としてと言えるかどうかはわからないが)、すなわち存在として語っておられるわけです。そうならざるを得ないわけです。いくら「神≠対象・存在」であって「神=働き」だなどと言っても、「神」は「人格・対象」か「非人格・非対象」のいづれかではなく、八木先生が指摘しておられるとおり、その両方において語られるからです。「神」は「人を通して」、「その人の人生を通して働く」からこそ「人格」だというロジックは、実は小田垣雅也氏が西谷啓治氏の著書からの示唆によりご自分の「説教」の中で語っていることでもあります。
「絶対無としての神が、なぜ人格神と結びつくのでしょうか。そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち『無という「もの」(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ』(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。(中略)このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える『対象』ではなくて『それを生きるもの』であり、その意味で人格的であるほかはないのです。(中略)その意味で、絶対無は『ただ生きられるもの』です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。」(~みずき教会説教「復活」) 」
要するに小田垣氏のいう「人格」とは「生きられるもの」を意味します。八木先生によれば、西谷氏の言う「生きられうるのみであるような無」とは先生の場所論的神学における「はたらき」のことだといいます。小田垣氏において「人格神」とは謂わば「生きられる無(=絶対無)としての神」ということになり、逆に言えば、人が生きられない「神」は「人格神」ではなく、人間の思考対象としての「(偶像)神」ということになる。だから遠藤氏にとっての「神」が「だれか人を通して何かを通して働く」というのは、その「だれか」にとっては、『沈黙』のロドリゴ神父のように自ら「神」を生きているということになります。
このような「人格神」理解は、八木先生のいわれる「場所論的」な神論と「人格主義的」な神論との区別を横断するものです。八木先生に訊いてみないことにはわかりませんが、上記の小田垣氏のような「人格神」理解には、八木先生の立場からすれば混同があるのかも知れません。しかし肯定的に見れば、神秘主義的思想というのは禅仏教にも通じて、あらゆる分別を超えるような面があるのかもしれません。結局、「神」は「意識」の次元では「人格」的で、信仰の「対象」であり、同時に「無意識」の次元では「はたらき」で「非対象」であり、その「二重性」において存在(と言えるなら存在)している・・・とでも言えましょうか。
もう、ここまで来たら私にとっては完全に考え過ぎです。もっと手前で思考停止しなければ生活現実から遊離してしまいます。
禅語の「息念忘慮 仏自現前」にかこつけて言えば、「神」が「人格・対象」か「非人格・非対象か」などといった「思念」や「思慮」の分別を放り止めることによって自分の心の中に「仏自現前」ならぬ「神自現前」が生じてくる。自分自身にとっての生ける「神」がおのずと現前してくるということでしょう。そこで滝沢克己先生のいわれる「インマヌエルの原事実」ということが想起されてくるのではないでしょうか?意識する,しないにかかわらず、この「原事実」は万人の脚下に恵まれているのですからね。いや、ついつい長々と失礼しました。
 
 
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