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Re:閲覧者さんへ

 投稿者:閲覧者  投稿日:2015年12月 9日(水)19時02分56秒
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  知足さん、くわしい説明をありがとうございます。「変異」は「返事」かなにかの入力ミスでしょうか?
さて、遠藤周作氏などがいかに「神は対象ではない」とか言ってもそれはしょせん小説家の頭のレベルであり、神学者や哲学者のレベルには及びません。ましてや滝沢先生のレベルとは天地の差があります。また、哲学者とか神学者と称して滝沢神学に関してかなり批評めいたことを述べてきた小田垣雅也氏も、どこまで滝沢神学を理解し得ているかは大いに疑問です。また、小田垣氏ひいては西谷啓治氏などの言う「人格」と八木先生がキリスト教神学について「人格主義的」と言われる場合の「人格」とは意味が違うのではないでしょうか?
ところで滝沢先生は次のように述べておられます。なお文中の「著者」とは八木誠一先生を指します。
「ちなみに著者は、カール・バルトが神を人の《gegenuber》(対極)と言うばかりでなく時にはっきりと『対象』と呼ぶという理由で、バルトにはなお著者のいう意味での『対象的』思惟が残っているという。(二二九―二三二頁)。ところが、自己ないし絶対者にかんして極力対象的思惟を排除する西田哲学をとおしてバルト神学に出会った筆者は、むしろ反対に、カール・バルトがかれ自身の信ずる神にかんして、きっぱりと対象と言うことを憚らないということに驚嘆してきた。まさにその点にこそ、この根本の事実にかかわるカール・バルトの認識もしくは思惟方法の類いない確かさを見るからである。しかも筆者のばあいそれは、人間的主体を『対象的存在』と言い切って動じないマルクスの心眼の鋭さ・明らかさ(『経哲草稿』)に対する驚嘆と、深く通ずるものなのだ。著者と筆者のあいだになお残る考えのずれは、ここにもまた示されてはいはしないであろうか。」(『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p154)
この文中での注として滝沢先生は、「筆者自身もまた、ナザレのイエスの誕生・十字架において『インマヌエルの原事実』が始めて成立したと考えるかぎり、カール・バルトにおいてもなお、人間の自己を孤立的に措定する旧き思惟が残っていることを指摘してきた。しかし、それとこれとはまったく別である。ここでバルトは、インマヌエルの原事実そのものに即して、神を対象と呼ぶ。それはかれが通俗の実存主義の曖昧を、それだけ徹底的に脱け出ていることの、一つの明らかな徴だというのである。」と述べておられます(p167)。
この「インマヌエルの原事実そのものに即して、神を対象と呼ぶ」というところに注目させられます。
 
 
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