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蛇足

 投稿者:知足  投稿日:2015年12月10日(木)13時30分14秒
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  閲覧者さん、このへんで神思弁はやめましょう。ひとことだけ・・・バルトが神の対象性を認めたのは当然と言えば当然です。バルトにとって神啓示は聖書ではなく、聖書が証言したイエス・キリストであり、キリスト自体が神啓示だからです。すなわちイエス・キリストにおいて非対象なる神が自己対象化したというわけなので・・・。
それと、言われるように小田垣氏の滝沢神学についての理解は、滝沢神学研究者からみれば疑問なしとはし得ないでしょう。ただ、自分の理解を絶対化して主張しないのであれば、人によって色々な理解のし方があっても、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
話を元に戻して、エスさんのいわれる「超人格」ですが、小田垣氏も「人格神」と題された説教で「無性的超人格」という言葉を用いているので引用しておきます。ただし、私自身はこのように一方ではフェミニスト神学に、また一方では伝統的神学にこびるような考えは持ちません。師弟関係だったともいわれる野呂芳男氏と小田垣雅也氏との著書に共通してみられるのが、このようなスッキリしない姿勢だと感じています。それは両者とも曲がりなりにも日本基督教団の教職者としての立場に制約されていたことと関係があるのでしょう。その点では滝沢克己先生や八木誠一先生とは根本的に違います。もっとも滝沢先生は晩年に同教団の教会で洗礼を受けて信徒にはなられましたが・・・。
なお、前回に引用した小田垣氏の「説教」は「復活」ではなく「復活について」でした。訂正しておきます。以上、蛇足ですが、何かの参考になれば幸いです。http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0407.htm


無性性、超越的女性性を「人格」と表現することは、理解できよう。なぜなら、わたしたちは人格なのだから、ほかに表現の仕様がない。その超越的女性性を「対象・物質」と理解するよりも、人格のほうが、はるかに実情に即している。物質は必ず対象認識に的なる。もともと人格は流動的なもので、とらえどころがない。それは対象・物質になることを否む。「絶対無」が、道元にしても、親鸞にしても、また西田幾多郎にしても、人間と結びつくのは、このせいではあるまいか。 ・・・・
全体性、無なるもの、大自然なるもの、根源的に女性なるものは、三位一体論的あり方をしている。それはまず、男・女という対立する両性と、そもそもその男・女という区別がありうるための場としての、男・女・その超越的女性性の場、の三位である。それをあえて表現するとしたら、それは人格性であろう。このことを、伝統的キリスト教の、神の人格としての三位一体論は意味しているのかもしれぬ。それは無性的超人格である。そしてそれは、「すべてを含むもの」としての女性性であろう。最前から、わたしはこの無性的超人格が超女性性であるといっているのである。そういう意味でなら、生命のすべての根源は女性的なものである。そういう根源的現実を表現しているのが、イエスの復活ということではあるまいか。
http://mizukichurch.web.fc2.com/sermons/sermon0409.html
 
 
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