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感謝

 投稿者:閲覧者  投稿日:2016年 1月10日(日)22時45分40秒
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  >「神」にも・・・それなりの「体」がある
「名は体を現わす」ということですね。ヤハウェは一説によると「在らしめる者」という意味だそうなので(ただし、yahyehでYHYHとなりYHWHにはならないので不確定)、なおさら実体的な存在感がありますね。しかし目には見えません。神は理論的には全能で自由だから遍在しておられるとは言え、そのような捉えどころのないお方であることをよしとはなさらず、聖書では言わば自己限定なさり「天」におられるといわれています。この「天」は宇宙空間を超越していますが、「神」の状態には捉えどころのある「空間性」があり、また、受肉の出来事から示されているとおり、旧約聖書で「顔」などの比喩に示されているとおり、霊的(=非物質)的な「身体性」もあります。だからこそ我々は信仰の対象とし得るのですね。大切なことを気づかせてもらって感謝します。ありがとうございました。
<私たちは「霊」というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には「姿」あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。>(~「Remnant」)http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/073wakaru.htm
しかし、私見では滝沢先生の神観~神論は、そういう霊的な体や姿などには、あまり関心がなく省かれていると感じます。とにかく、故・三浦綾子さんの『旧約聖書入門』における、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」という言い方は、「神」はいかなる意味においても「体」の無い、とらえどころなき得体の知れないお方だと誤解させるおそれがあり、その点で不十分であり不適切であったと思います。
しかし問題はこのような形而上的な事柄ではなく実践的な事柄であり、すなわち倫理です。滝沢神人学から、いかなる倫理が展開されているのかが問われます。今後、この点について御教示願います。
 
 
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