teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


新着順:10/603 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

豊田氏の滝沢批判について

 投稿者:ehyehist  投稿日:2016年 4月21日(木)12時55分6秒
  通報
  バルト神学に詳しい豊田忠義氏は次のように、滝沢克己氏を批判なさっています。
サイト「キリスト教およびカール・バルトのほんとうの分かり方」
http://christianity-church-barth.undo.jp/

[滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった 。]


[「キリスト者」も、「聖書」も、「イエス・キリストという名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても」、「神われらとともに」という「根本的事実」だけは残ると書いた滝沢克己は、アジア的日本的な自然思想への復古性に依拠したイエスの神人論を認めているが、自由な自己意識の恣意性・主観性によってイエスの神性性を揚棄してしまった。]

[滝沢克己の場合、世界史のアジア的段階の日本における神人論のそれであるのか・天台本覚論の草木国土悉皆仏性論のそれであるのかは別として、滝沢にとってイエスは、あくまでも滝沢の第一次的な「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてであるが、「まことの神」・「まことの人」である。しかし、すべての近代主義者のように滝沢は、イエス ・キリストの「存在の本質」である神性性を揚棄してしまった 。]

[ブルトマンの人間学的神学は、宗教としてのブルトマン教の位相にあるものであり、アジア的日本的な自然原理の歴史性に帰属した滝沢克己の哲学的神学は、宗教としての滝沢教の位相にあるものである。]

[教会の宣教の批判と訂正」は、常に、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」における三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論等に埋没していく以外にないからである。良質な神学における思想としての三位一体論を持たない場合、例えば、滝沢克己のようにキリストの神性性を否定してしまうことになる、]

自分のような素人にもわかることは、滝沢氏はイエス・キリストの神性を否定したということです。神人の第二義の接触ですから。これは現代でも、エホバの証人などのように「異端」といわれる立場になりますね。しかし、だから滝沢氏はユニテリアンなのかというとそうでもなく、日本キリスト教団福岡社家町教会の信徒になられた。このあたりは素人にはよくわかりません。滝沢氏はご自身を(伝統的キリスト教においては)異端的立場であるとは自覚しておられなかったのでしょう。
一般に知識人というか思想家というのはわかりにくいもので、正統的な表現も使いながら異端的な発言をなさったりします。どっちか明瞭な人というのは(特に現代においては)少ない気がします。
 
 
》記事一覧表示

新着順:10/603 《前のページ | 次のページ》
/603