teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


新着順:4/603 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

イエスをキリストと告白する契機

 投稿者:閲覧者  投稿日:2017年 9月 7日(木)20時03分45秒
  通報
  「太初の昔からすべての人の脚下にある『神われらとともにあり』という『インマヌエルの原事実』を明らかにし、その原事実と、そのことを証しする者としてのイエスとを峻別したことは、すでに亡くなられた滝沢克己先生の大きな貢献であった。ただ先生においては、イエスをキリストと告白する契機が、先生自身洗礼を受けてキリスト教徒になったにもかかわらず、十分に展開されてはいない、と言わなければならない。」(青野太潮著『どう読むか、聖書』〔朝日選書〕p223~224)
その点では私も同じで、いちおうキリスト教会に属してはいるものの、イエスをキリストと告白する契機は自分の中であまり展開されてこない。それは聖霊のはたらきが得られないからだと言ってしまえばそれまでだが、おそらく私には「神」さえおられればそれでいいのだ。ただし私にとっての「神」は常時「ともにあり」では困るのであって、ある程度の距離を置いた「遠くの神」であってほしいと思う。そのかわり、人なみに救ってもらおうなんておこがましい望みは持たない。地獄堕ちで滅ぼされるならそれはそれでしようがないとあきらめる。ただ、同じく消えてなくなるにせよ、運命によってそうなるのか、造り主によってそうなるのか、という違いには意味がある。
 
 
》記事一覧表示

新着順:4/603 《前のページ | 次のページ》
/603