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滝沢氏の、イエス

 投稿者:匿名  投稿日:2017年12月 6日(水)21時14分47秒
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  御多忙中おそれいります。ひとつ質問があり御教示をお願い致したく送信した次第です。よろしくお願い申し上げます。
九大での滝沢先生の教え子といわれる寺園基喜先生によりますと、「滝沢先生の場合には、十字架とは、神に従って完全に活きた人間が、この世の中で被らざるを得なかった一つの悲劇を意味します。そして復活とは、さまざまな、徴なしでも、人間イエスなしでも、インマヌエルの事実は生きているという、その根源的な事実の自己証明だ、そういうふうに教えられるのであります。」(http://www1a.biglobe.ne.jp/joseich/kikou5.html)とのことですが、「十字架」については何故、「神に従って完全に活きた」結果として「この世で被らざるを得なかった」のかが不明です。神に従って活きた人間が悲劇的な死を遂げなければならないという、そのわけです。べつに神に従って活きたからといって悲劇的な死を遂げると決まっているわけはないでしょう。実際、イエスほどではないにせよ、神に従って活きた人物で安らかに死んだ人もいたはずです。ところがイエスはそうではなかったと言われる、これが具体的にはどういうことなのか?国家権力による迫害とか弾圧とかそういうことを含意しているのか?それともイザヤ書の苦難の僕の預言を指しているのか?ということ、これは1つです。
そして「復活」については何故、イエスの復活が「人間イエスなしでも、インマヌエルの事実は生きているという、その根源的な事実の自己証明」と言えるのか?という疑問があります。
むしろ、イエスが死んで終わりではなく、3日目によみがえったということは、やはりイエスなしには救いはないということを意味しているのではないか・・・普通はそのように、滝沢先生の理解とは逆に考えやすいと思います。しかもイエスは幽霊のような姿でよみがえったのではなく、魚をむしゃむしゃ食べるような、あるいは弟子の指を十字架刑で刺された傷痕に触れさせることのできるような体をもって、「まことの人」として復活したわけで、それはやはりイエスを信じてこそ神に救われるという福音を示しているというふうに解されますが、滝沢先生の復活理解はそうではないようです。ここがよくわかりません。
以上、中学生でもわかるように教えて頂けると幸いです。
 
 
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